No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

【新しい論文の掲載】Beyond Diversity: Queer Politics, Activism, and Representation in Contemporary Japanが出版されました

 ドイツのデュッセルドルフ大学出版よりBeyond Diversity: Queer Politics, Activism, and Representation in Contemporary Japanが出版されました。僕は"Feeling the Friction: Reworking Japanese Film Studies/ Criticism from a Queer Lens"という論文を寄せています。2000年代以降の日本映画研究/日本映画批評と性的マイノリティ表象の展開について書きました。なかなか大変な論文だったので、ようやく出版されてとても嬉しいです。オープンアクセスの本なので無料でダウンロードすることができます。ぜひお読みいただければ嬉しいです。

 

www.degruyter.com

京都服飾文化研究財団 機関誌『Fashion Talks...』15号に寄稿しました。

 お仕事の報告です。京都服飾文化研究財団が刊行している機関誌『Fashion Talks...』の15号にお声がけいただき、論考を寄せました。タイトルは、「奥まで触れて──映画にみる接触へのクィアな欲望」です。2020年前後に公開された映画における接触について書いています。

 

www.kci.or.jp

 以下に購入情報が記載されています。ご関心があればぜひよろしくお願いいたします。

www.kci.or.jp

【要約】Antoine Damiens, LGBTQ Film Festivals: Curating Queernessのチャプター1

 Antoine DamiensのLGBTQ Film Festivalsのチャプター1の要約を残しておきます。

 

Chapter 1 "Festivals that (did not) Matter: Festivals' Archival Practices and the Field Imaginary of Festival Studies"

・LGBTQ映画祭研究においてアーカイブ調査はどのように行うか。本書は周辺化され、また忘れ去られてきた映画祭に焦点を当てる。その作業は映画祭とは何か?という問いへ拡大されていくものであり、本章では映画祭をephemeral events(一時的な出来事)として定義することに挑む。映画祭研究の正当性は何か? どの映画祭が研究対象としてふさわしいのか? 本章では、「失敗した」、あるいは「続かなかった」映画祭に焦点を当てることで、映画祭研究を再想像する。

 

Cruising the Archives

・本章で最も重要な概念としてcruisingがある。クィアカルチャーにおける(性的な)出会いを求めて歩くcruisingを歴史的な資料との危険な出会いを達成するための視点として導入する。アーカイブ調査は痕跡や幽霊と出会うことであり、実際に資料に行きあたるよりも、ぶらぶらと探し回る過程(とそこで生じる疲労)の方がどきどきする感覚がある。

・cruisingという視点を使うことで、直線的な、異性愛規範的な時間性を遮断したり、あるいは一時的に引き伸ばしたりできる可能性に満ちた、歴史との想定していないエロティックな関係を結ぶことができるかもしれない。

 

Compromising Evidences: Ephemeral Traces in the Archives

・本書執筆に向けた調査の中でさまざまなアーカイブを訪れた。資料が整理され、きちんとデータベース化されているものもあれば、整理がまったく手付かずで調査がうまくできなかったものもある。

・これらの調査の中で見つけた一時的な映画祭には、たとえばポルノグラフィ上映を行った映画祭もあった。他にも「映画祭とは何か?」という定義からは溢れてしまうような映画祭がたくさんある。映画祭の定義から離れれば離れるほど、それらのマイナー映画祭に関する資料調査・収集は進まない傾向にある。映画祭チラシに開催日付がなかったりするものもある。

・マイナーなLGBTQ映画祭を網羅的に体系化することは不可能かもしれない。しかし、残された痕跡が明らかにするのは、多くのアーカイブにおいてこれらのマイナーな映画祭(が残した痕跡)に関する資料コレクションはないし、そもそもアーカイブの収集対象になっていない。

・本書は1970年代から1990年代にあった、アーカイブ化されてこなかった一時的な映画祭に焦点を当てる。

 

Unpacking the Archives: (Dis)ordering Ephemeral Traces

・痕跡と幽霊との予期せぬ出会いを求めるCruisingは、クィアな歴史を正当化する/隠すアーカイブ機関の役割に対して周波数を合わせることを可能にする。

・Problem archive (Ann Cvetkovich):忘れ去られた過去の貴重な指標となる証拠であり、かつアーカイブから何かが足りないことを矛盾を抱えながら思い出させてくれる。Moving imageに対するクィアな人々の投資は、アーカイブのせいで/があっても、十全には明示されない。資料はどこでどのようにアーカイブにたどり着くのか。

・ゲイやレズビアンの記憶や生活は公的なアーカイブからは忘れ去られ、また排除されてきた。可視性の認識論。クィアネスに関するムニョスの引用。一時的な幽霊の存在はいつでも見えるわけではないし、証拠として扱われるわけでもない。

・1970年代から1990年代のクィアLGBT(映画)アーカイブの発展の流れ(p. 46~47、後日詳細に書く)

・組織運営のアーカイブで収蔵されたゲイ&レズビアン関連の資料はアクセスの観点から考えると研究者にとっては便利かもしれない。

・コミュニティ・ベースのアーカイブの方が忘れ去られた映画祭の分析をする場所としてより適当かもしれない。特定のコミュニティで開催された映画祭、あるいはそのコミュニティで暮らすLGBTQの人々の生活の記録を残すことに焦点が当てられているため。ただ、こういった小さいアーカイブは人手が足りず、十分に資料が整理・カタログ化されていない場合が多く、リサーチできない可能性も否定できない(アクセスが拒否される場合もある)。

・LGBTQコミュニティに対する差別に関わってきた公的な視点(例えば検閲など)を持ってきた機関がLGBTQコミュニティに関するアーカイブを運営する皮肉。

アーカイブは中立ではない。アーカイブは常に知識を生成・序列させるし、他のものよりも特定の映画祭を可視化させる傾向もある。

 

Festivals that Did Not Matter: Festivals' Archival Practices and Historiography

・Julian Stringerが述べたように、映画祭は自分たちの歴史を自ら語ってきた。特定の映画サーキットの中で、どのような観客に向けて、どのような立ち位置を占めるのか。

・映画祭研究はすでに存在するテキストに依存しがちである。ただし、Loistが指摘するように、映画祭は自分たちの歴史を残す時間もリソースを持たないかもしれない不安定な文化的労働者によって運営されている。そのような状況の中で捨てられたり、忘れられたりする資料がある。それらの資料の中には、忘れ去られた映画祭に関する情報がたくさん残されている。フランスの映画祭などに関する記述(p.50)。

・大学が開催する映画祭に関するアーカイブとその内部に存在しうる(同性愛)差別。

・何が残され、何が残されないのか。自分たちの歴史を残すことに意識的である映画祭と、痕跡としか存在しない映画祭の歴史がある。ACT UPに関するコレクションの話(p.53)。

 

Making History: On Queer Festival Studies' Historical Project

・語られてきた歴史は常に断片的である。クィア映画祭に関する歴史がどのように残されてきたのか、その試みの内外を見る必要がある。クィア映画祭に関しては、Rhyne、Loist、Zielinskiの先行研究が先駆的。

クィア映画祭とアーカイブの流れ。phase 1)1980年代半ばに予算カットがあった。映画祭がプロフェッショナルな運営になった。エイズ危機の文脈において、映画祭はコミュニティ・ベースの委任を保ち、伝統的なメディアにおけるゲイやレズビアンの可視性から恩恵を受けた。phase 2) 1991-1995、ニュー・クィア・シネマの影響もあり、映画祭は商業主義に傾倒していく。phase 3) 1996-2001、クィアLGBT映画祭の国際化とスポンサーの増加。

・2001年からの技術的な革新とゲイ・ケーブルテレビとインターネットによる変化。

・Richardsが示すように、LGBTQ映画祭の発展と開発主義的な歴史の関係は新自由主義的な枠組みにおいて見逃すことはできない。

・映画祭の延命・長寿化・連続性について。(歴史的に)重要な映画祭として認識されてきたのは、無くなっていない/続いている、あるいは数年続いた映画祭のみ。そのような言説の中で失われてきた映画祭の歴史や痕跡は確実にある。

 

Festivals that Matter: Festival Studies' Field Imaginary, Methods, and Political Project

・映画祭研究において、なぜLGBTQ映画祭を研究するのか? その正当性を証明せざるをえない状況がある。LGBTQシネマは文化的価値の領域において複雑な立ち位置にある。映画監督、映画祭、そして研究者はアイデンティティと(正当な)アートの相互作用を常に協議しなければならない。なぜLGBTQ映画祭が重要なのか、クィア・シネマをシネマとして焦点を当てる必要性について説明を求められる。コミュニティにおける映画監督、映画祭、研究者の立ち位置だけでなく、コミュニティとそこに属する人々へ敬意を払うこと。

・本書が扱う一時的な映画祭は映画祭研究の規範と映画祭の定義を問い直す。一時的なイベントは伝統的な映画祭への焦点をずらす(p. 65)。映画祭の定義とは何か。

・labour of loveについて。

・ムニョスによるクィアネスの言及。「ここ」と「いま」の拒絶。

 

 

 

 

【要約】Antoine Damiens, LGBTQ Film Festivals: Curating Queernessのイントロダクション

 毎年12月に開催される日本映画学会の全国大会を終えました。今回は今年の春に修士課程へ入学した大学院生がケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)について発表しました。博士後期課程へ進むか、あるいは就職活動をするか、はたまた他の活動を模索していくか、その選択を広げるためにもM1から積極的に発表するのは修士論文に早くから取り掛かれるので良いことです。本人はすごく緊張されていたようだけれど、質疑応答もきちんと答えられていたし、素直にすごいと思いました。引き続き頑張ってもらいたいです。

 

 日本映画学会第19回大会のプログラムは以下からアクセスできます。

 

 学会を終えて12月も半ばに差し掛かり(原稿はまだ終わらず...)、金沢大学では第4クォーターが始まりました。大学院の授業ではAntoine DamiensのLGBTQ Film Festivals: Curating Queernessを読みます。せっかく(?)なので自分用のメモとして、授業後に各章の要約を残していくことにしました。

"Introduction. Festivals, Uncut: Queering Film Festival Studies, Curating LGBTQ Film Festivals"

・本書は一つの矛盾から誕生した= 研究者たちが映画学やメディア・スタディーズにおいて独立した分野として映画祭研究を確立しようとしてきた一方で、批評家や芸術関係者たちはLGBTQ映画祭の文化的関連性について長年疑問を抱いてきた。

・本書は、現在の映画祭研究で暗示される理論的かつ政治的なナラティブを問うことで、映画祭研究の構造そのものを考えることを目的とする。特に、映画祭研究の正当性とはどこにあるのか、どのように担保されるのか。

・映画祭研究は現時点(2020年)において行き詰まりにある。

 

Pre-screening: Constituting Festival Studies

・映画祭はヨーロッパを中心とした現象として始まった。ヴェネチア(1932)、カンヌ(1946)、ベルリン(1951)。第一次世界大戦によって停止したヨーロッパの映画産業の「穴埋め」としてハリウッドが進出して作り上げた配給のネットワークに抵抗するために、「芸術性」の高い映画を各国が自ら推薦して映画祭へ出品した。

・1960年代からは映画祭プログラマーが主体となり「芸術性」の高い映画を評価する場となり、1970年代からは映画マーケットを意識して映画監督の位置付けを強調するようになる。映画祭研究で頻繁に言及されるネットワーク構築の重要性が認識され始める。ネットワークに関してはde Valckの研究がある。

・ネットワークとサーキット(circuit)の違いについて(p.21)

・LGBTQ映画祭に関する研究や言説は1990年代からJump CutやGLQを中心に発展してきた。例えばPatricia Whiteが編集した1999年GLQの特集がある。ホワイトによれば、クィア映画に対する集団的な経験とLGBTQの人々が映画と結ぶ関係性の再概念化を図る上で理想的な場所になった。

・LGBTQ映画祭に関する研究の多くは未出版の博士論文として存在する。本書はそれらの博士論文が提供する知見や経験をもとに書かれている。これはDamiensが頻繁に繰り返すephemeralやforgottenの概念と繋がるところ。

・LGBTQ映画祭に関する研究において、多くの研究者はクィアな映画文化と映画祭を企画・運営する経験の関係性を分析する傾向にある。Pink Dollar economyに関するRhyneの研究、フーコーヘテロトピアを用いたZielinskiの研究などに加え、Loistによるクィア映画文化の構築に関わるLGBTQ映画祭の役割に関する研究、Richardsによるクリエイティブ産業およびコミュニティに対するクィア映画祭の位置付けに関する研究など。

・これらの先行研究に対して本書が見せる違いは、大きなLGBTQ映画祭ではなく、忘れられやすい、よりマイナーなLGBTQ映画祭に焦点を当てる点に見せる。Cutされてきたものではなく、uncutに含まれるものを読み解きたい。

 

Queering Festival Studies: Critical (Film) Festival Studies and the Festival as a Method

・本書はLGBTQ映画祭に関するものであることと映画祭研究をクィアするものであることの微妙な境界線(fine line)の間を舵取りすることを目指す。

・White、Waugh、Straayerによる特集が提示したように、LGBTQ映画祭は、アイデンティティに関係するため/関係するにもかかわらず、映画祭を再概念化する効果的な枠組みを提供する。アイデンティティに対するLGBTQ映画祭の焦点は、映画祭の企画・運営と学術的な知識生産(knowledge production)の中心にある権力の力学を可視化させる。

・ゲイの研究者としてuncutに対して有す情感を否定できない。

・リニアではない歴史の記述。フェミニスト歴史学や女性学の研究手法を参照する。

・ムニョスが提示したように、クィアネスは時間に対する特定の関係を伴う。LGBTQの人々は「公式」の歴史やアーカイブから抹消されてきたと同時に、異性愛の直線的な時間性の外に位置付けられてきた。その文脈において、研究者たちは、時間におけるクィアな主体とは何かを考えつつ、LGBTQのアイデンティティとは何か、そして同性愛的欲望の横断的な歴史的持続性の間の境界線について模索してきた。

 

Labour of Love: Desiring Scholars/Festivals

クィアな学術的研究と映画祭の企画・運営に並行して存在してきた著者の経験。

・Uncutの応用:研究対象や本書を捧げる人々から著者自身の存在を切り離すことを拒絶する(refuses to separate, or cut)。自身の経験がなければ書けなかった本。

・個人的な経験を切り離すことはゲイ&レズビアン研究では古くからやられてきたこと。

・Friendship and fucking! 映画祭(の運営)に参加し、そこで出会った人々とさまざまな関係性を構築する。さまざまなstickyさがある。

 

The Cut: A Note on Methodology

・何を研究対象にするか/しないかの選択。Uncutに惹かれつつ、限界もある。

 

"Although my focus is on LGBTQ festivals organized in the West, I do not want to suggest that 'homosexuality' and 'queer cinema' are concepts that can be applied unilaterally to describe the realities of LGBTQ people in various European countries, Canada, and the US. In resituating festivals within the larger context of geographically specific understandings of queerness, I partly aim to provide a more nuanced understanding of the West -- one that does not take US identity politics as the only way of expressing same-sex desire" (p.31).

 

Curating the Book

・本書の構成について

 

 

大学院授業での読み物:1930年代の日本映画にみる文芸映画

 2023年第3クォーターもそろそろ終わりが見え始めてきて、ちょっと気持ちが楽になってきた。と言っても、一週間足らずのインターバルを挟んですぐに第4クォーターが始まるし、国際学会と国内学会が立て込んでいるからそんなに気は休まらないのだけど。風邪を引かないように気をつけたい。

 

 第3クォーターの大学院授業「映像文化論」では、伊藤守編『メディア論の冒険者たち』を読み進めながら、箸休め的に院生たちが関心を寄せるトピックを箸休め的に扱っている。文学研究に携わる院生がいるため、今回の箸休めでは文学から映画へのアダプテーションの一般的な理論を紹介しながら、日本映画における文芸映画ブームについて論文を読んでもらっている。

 

 第七週目に読むものは以下の通り。今回は1930年代の文芸映画として、島津保次郎の『家族会議』について議論する予定。

 

① 溝渕久美子「「文芸復興」としての「文芸映画」ー1930年代日本における「文芸映画」ブームに関する再考察」『映像学』2005年、pp. 65-81

 

② 島村健司「「家族会議」を発声映画から考える」『横光利一研究』第1号、2003、pp. 57-70

 

『映画芸術』484号に寄稿しました。

 2023年7月31日に発売された『映画芸術』484号に、「心を空っぽにしながら、ナマケモノクィア映画の夢を見る」という論考を寄せています。映画『怪物』に関する論考を2本書いた後、ヘトヘトになりながら書いた論考だったからか、何箇所か脱字があって赤面しながら読み返しましたが、感情労働としての映画批評の側面についても書いているので、その辺りに関心のある方はぜひ図書館などで手に取っていただければ幸いです。

 

 

『怪物』に関する論考の刊行のお知らせ

 『怪物』(監督:是枝裕和、脚本:坂元裕二、2023)に関する論考がTokyo Art BeatとCINRAからそれぞれ刊行されました。ご笑覧いただければ幸いです。

 

Tokyo Art Beatの論考はこちら

www.tokyoartbeat.com

CINRAの論考はこちら

www.cinra.net