シンポジウムのお知らせ:Cinema and Social Change in Japan
10月20日から22日にかけて、国際シンポジウム「Cinema and Social Change in Japan」が京都大学で開催される。京都大学白眉センター助教のジェニファー・コーツ氏が主宰を務める。
僕はシンポジウム三日目のパネル「Queer Cinemas」で"Cinematic Responses to Queer Aging"という題目で発表する。僕の発表は、戦後の日本映画から可視化され始めたと言われる「老い」の表象が、俗に呼ばれる「ゲイブーム」がおとずれた1990年代以降の日本映画でどのように描かれてきたか、という話になると思う。
シンポジウムの詳細は、以下のPDF を参照ください。
http://www.hakubi.kyoto-u.ac.jp/eng/00_eve/doc/CSCJ_sympo.pdf
ジェニファーの単著はとても勉強になった。
Making Icons: Repetition and the Female Image in Japanese Cinema, 1945?1964 (English Edition)
- 作者: Jennifer Coates
- 出版社/メーカー: Hong Kong University Press
- 発売日: 2017/03/07
- メディア: Kindle版
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田嶋 一『〈少年〉と〈青年〉の近代日本: 人間形成と教育の社会史』を読んだ。
図書館で田嶋一氏の『〈少年〉と〈青年〉の近代日本: 人間形成と教育の社会史』が新刊棚に置かれているのを偶然見つけたので、早速ざっくりだが読んだ。2016年の発売なので博論執筆のときに出会いたかった一冊。
タイトルの通り、「少年」と「青年」という概念が教育の導入や地域慣習などによってどのように形成され、変遷してきたかについて詳細に分析がなされている。僕にとって有益だと思ったのは、本書の後半で『少年世界』、『少年倶楽部』、『キング』といったいわゆる少年雑誌に関するパートだ。少年雑誌はおもちゃ映画と呼ばれる玩具映画の宣伝を掲載する上で重要な媒体であったと考えられる。それゆえに、おもちゃ映画の実践者・受容者にとってこれらの雑誌がどのような意義を持っていたかを考える上で、本書は大きな示唆を与えてくれる可能性があると思った。
森栄喜『Family Regained』展へ行きたい。
写真家・森栄喜さんの新作展『Family Regained』が9月8日から30日まで新宿のKEN NAKANISHIで開催中だ。今秋に出版される新作写真集から選りすぐりの作品が展示されているそうだ。展覧会に足を運ぶことはできないが、写真集は予約したから今から楽しみだ。
短編アニメーション 『In A Heartbeat』
4分間の短編アニメーション In A Heartbeatが話題になっている。エステバン・ブラヴォー(Esteban Bravo)とベス・デイヴィッド(Beth David)という二人の若いアニメーション作家による短編で、リングリングカレッジ アート&デザインに卒業制作として提出された作品らしい。もともとは a-boy-meets-a-girl的な設定だったようだが、製作の過程において、少年Sherwinが別の少年に恋をする物語に変更された。
そのような変化の背景には、ディズニーやピクサーによるアニメーションや子供映画におけるLGBTQキャラクターの不可視という問題が考えられる。ドラマや映画においてLGBTQキャラクターの存在が少しずつ増えてきているとはいえ、メジャーなアニメーションや子供映画においてはLGBTQキャラクターの表象はハードルが高いように見える。そんな現状だからこそ、In A Heartbeatは欧米でときどき見られる「アニメーションは子供向け」という意見を逆手にとって、アニメーションという媒体で同性間の恋を描くことにしたそうだ。
たった四分間だが、誰かに恋心を抱くことのときめき、その恋心を公にすることが自らのセクシャル・オリエンテーションをアウティングしてしまうことに対する恐れなど、丁寧に描かれている。ぜひほっこりしてもらいたい。来年の京都国際子ども映画祭で上映してくれないかな。
『メアリと魔法の花』(米林宏昌、2017年)
心待ちにしていたスタジオポノック第一作『メアリと魔法の花』(米林宏昌、2017年)を観てきたが、どう評価すれば良いのか分からない程に困惑している。公開前に読んだスタジオポノックのインタビューで、本作がスタジオジブリの『魔女の宅急便』を意識して作られたと記憶していたから、『魔女の宅急便』を初めて観たときのわくわくを別の形でもう一度体験できるかもしれないと期待していた。残念ながらその期待が満たされることはなかった。
気になった点をいくつか挙げておく。
・夜間飛行が咲く頻度。なぜ7年に一度なのか。なぜあの形状の花が「夜間」「飛行」という名前なのか。
・そもそもなぜ黒猫ティブはメアリを夜間飛行へ導いたのか。ティブとギブ(もう一匹の猫)が花を警戒しているのは明らか。もし猫たちが花に対してメアリに何かしてもらいたかったのだとしても、メアリが二匹の信頼に値すると判断できる要素/きっかけが不明瞭である。
・メアリの大叔母が冒頭の赤毛の魔女なのであれば、なぜ彼女が現在住んでいる土地に定住することになったのか。夜間飛行を見つけたかった? 根絶やしにしたかった?
・フラナガンの役割は? マダムやドクターの手に余るような存在として描かれている印象。フラナガンは宮崎駿?
・敵役が雑魚過ぎる。赤毛や黒猫の使い魔が偉大な魔法使いの証なのであれば、なぜ警戒しないのか。
・魔法がしょぼい。「呪文の神髄」をメアリが初めて開ける時、いくつかの魔法がメアリの額から体内へ吸収されていく描写には、その後、メアリがそれらの魔法を使って何かしらの困難を乗り越えるのかもと期待した。しかし、メアリが使のはたった1つの魔法だけ。もちろん、その唯一使う魔法が物語において重要な鍵であることは確かだが、「呪文の神髄」をもっと活用しても良かったのでは? 公式HPのストーリーに、「メアリは、魔法の国から逃れるため『呪文の神髄』を手に入れて、すべての魔法を終わらせようとする」とあるが、実際の作品でメアリが「呪文の神髄」を手に入れるのは偶然の出来事であり、「魔法の国から逃れるため」でも「すべての魔法を終わらせ」るためでもない。
・メアリが魔法を解くことで助ける動物たちは、スタジオポノックのアニメーターたちなのか? 魔法や魔法使いが宮崎駿やジブリを連想させるものだとすれば、メアリが魔法を拒絶する展開は、スタジオポノックがジブリとは異なる手法や形態で活動する表明?
・夜間飛行の効力が切れたはずのメアリがなぜ最後に飛ぶことができるのか? 「魔法が使えるのはこれで最後」的な発言をメアリがするが、「いや、あなた、しばらく前に魔法使えなくなったじゃん」と突っ込んでしまった。フラナガンがほうきを修理してくれるが、魔力を失い、折れてしまったほうきを修理し、再び魔力を授けることができるフラナガンの力の説明はないのか?
京都大学映画コロキアムでの発表
6月6日、映画研究者の木下千花先生主催による京都大学映画コロキアムで発表してきた。テーマは今度の表象文化論学会で喋る「2010年代の日本映画においてゲイ男性を描写すること/演じること」。
口頭発表の形式は、発表が20分で、質疑応答が20分だった。正確には計っていないが5分ほど喋り過ぎた気がする。日本映像学会で関西にいらした早稲田大学の藤井仁子先生が、木下先生が参加しているアンドレ・バザン研究会が最近刊行した翻訳集に対する書評を行うことが決定していたので、コロキアムの通常枠で僕の発表にコメントしてくださった。
今回は李相日監督の『怒り』のショット分析を主に行った。発表自体は、正直に言って荒削り過ぎたので、考えていたことを正確に伝えられたかどうかは分からない。ただ、質疑応答ではかなり有益な示唆をいただけたので、7月の学会では議論がもっとしっかりした状態のもので話せると思う。もちろん、それまでにはかなりのリサーチが必要ではあるのだけど、何が必要かは大体道筋が立てられている(つもり)。
口頭発表の準備も必要だが、来週には英語論文の締め切りがあるので、まずはそちらをどうにかしないとな。良い報告ができるように頑張ろう。
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ようやく千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017)を読み始めた。まだ60頁ほどしか読めていないが、Aha! momentがところどころにあって読んでいて楽しい。授業で学部生に紹介しよう。