No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

第13回日本映画学会全国大会での口頭発表が決まりました。

 12月9日、京都大学で第13回日本映画学会全国大会が開催される。映画監督アルフレッド・ヒッチコックに関するパネルがあるだけでなく、ヒッチコック研究で著名なD. A. Miller氏の講演がある。

 

 昨年は博論の提出直後で参加は控えたが、今年は僕も発表者として参加する。今回の発表タイトルは「喪失と対峙する─『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を一例に」の予定だ。

 

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Miller氏の近著で積読状態のものがあるので講演の前に読んでおきたい。

Hidden Hitchcock

Hidden Hitchcock

 

 

天津へ行ってきた。

 10月27日から30日まで3泊4日で中国の天津へ出張で行ってきた。中国へ行くのは今回が初めてだったのでお金、言語、ネット環境で戸惑うことが多かったが、なんとか生きて戻って来られてホッとしている。

 

 今回の中国出張は第二回東アジア日本研究者協議会への参加が主な目的だった。京都大学の院生を発表者として構成したパネル「震災からの記憶:せんだいメディアテーク『わすれン!』プロジェクト分析」が採択され、僕はコメンテーターとして同席した。発表者それぞれが思うところはあっただろうが、原稿化に向けた改善点も見えたし、全体的にうまく行ったように思う。

 

 天津滞在中、映画館へ行く機会があった。本当は協議会の参加者とともに市内見学を...と考えていたのだが、中国へ来る機会はそうそうないので地元の映画館を訪れることにした。僕が向かったのは天津星輝国際影城。協議会二日目の会場だった南開大学から徒歩40分ほどの市内に位置した映画館で、スーパーマーケットの3階部分にあった。劇場に向かうにはエレベーターに乗るんだが、ガラス張りのエレベーターでけっこう古い印象を受けたので、正直乗るのは怖かった...

 

 『羞羞的铁拳』(Never Say Die, Song Yang & Zhang Chiyu, 2017)と呼ばれる、体が入れ替わってしまった男女が山奥での修行を経て格闘技マッチに挑むというコメディ映画を観た。

 


《羞羞的铁拳》美国加拿大9月29日上映

 

 この映画が挑戦していることに大した新規性はない。ただし、ジェンダーが入れ替わってしまった設定を誇張された演技で伝えることで笑いを巻き起こす、という点では成功していたと思う。中国文化におけるジェンダー観を把握していれば、もっと発見できる点があったのかもしれない。

 

 この映画館へ行って面白かった点が二つある。一つは観客がけっこうな大声で笑うこと。日本の映画館だとコメディ映画を観ていたとしても、クスクスくらいしか聞こえないことが多いが、僕が行った映画館では笑うポイントで観客が一斉に笑っていた。そのおかげで僕も自然に笑えたし、楽しかった。二点目は一点目の延長でもあるのだが、英語字幕と中国語字幕がついていた点。僕が座っていた席からだと、白地で書かれた字幕を読み取るのは正直辛かった。だが、文字は読めなくても大体の話の流れは分かるし、なによりコメディなので、他のお客さんが笑っているポイントで同じように笑えばいい。そうすることで、自分が普段あまり観ることのない国の映画であっても、現地の観客から楽しみ方を教えてもらっている気分がした。

 

 ちなみにこの映画館で困ったことがひとつあった。事前にチケット代(30元)と上映開始時刻を調べていたので、その二点は問題なかったんだが、支払時にどうも値段が合わない。一緒に行った同期と二人で「うーん、なんでや?」と悩んだけど、中国語を話せないし、レジスタッフは英語も日本語も話せないようだったので、確かめることができず消化不良のまま劇場へ。トイレへ行っていた同期が戻ると、両手にジュースを持ち、隣にスタッフがポップコーンを持ってついてきてたので「あー買ってくれたんや」と思ったら、なんと値段が合わないなと思った理由がチケット代にジュースとポップコーン代が含まれていたからだ、ということがようやくその時に分かった。次に行くときはせめて注文くらいは聞き取れるようになってから挑戦したい。

シンポジウムのお知らせ:Cinema and Social Change in Japan

 10月20日から22日にかけて、国際シンポジウム「Cinema and Social Change in Japan」が京都大学で開催される。京都大学白眉センター助教のジェニファー・コーツ氏が主宰を務める。

 

 僕はシンポジウム三日目のパネル「Queer Cinemas」で"Cinematic Responses to Queer Aging"という題目で発表する。僕の発表は、戦後の日本映画から可視化され始めたと言われる「老い」の表象が、俗に呼ばれる「ゲイブーム」がおとずれた1990年代以降の日本映画でどのように描かれてきたか、という話になると思う。

 

 シンポジウムの詳細は、以下のPDF を参照ください。

http://www.hakubi.kyoto-u.ac.jp/eng/00_eve/doc/CSCJ_sympo.pdf

 

 ジェニファーの単著はとても勉強になった。

Making Icons: Repetition and the Female Image in Japanese Cinema, 1945?1964 (English Edition)

Making Icons: Repetition and the Female Image in Japanese Cinema, 1945?1964 (English Edition)

 

 

田嶋 一『〈少年〉と〈青年〉の近代日本: 人間形成と教育の社会史』を読んだ。

 図書館で田嶋一氏の『〈少年〉と〈青年〉の近代日本: 人間形成と教育の社会史』が新刊棚に置かれているのを偶然見つけたので、早速ざっくりだが読んだ。2016年の発売なので博論執筆のときに出会いたかった一冊。

 

 タイトルの通り、「少年」と「青年」という概念が教育の導入や地域慣習などによってどのように形成され、変遷してきたかについて詳細に分析がなされている。僕にとって有益だと思ったのは、本書の後半で『少年世界』、『少年倶楽部』、『キング』といったいわゆる少年雑誌に関するパートだ。少年雑誌はおもちゃ映画と呼ばれる玩具映画の宣伝を掲載する上で重要な媒体であったと考えられる。それゆえに、おもちゃ映画の実践者・受容者にとってこれらの雑誌がどのような意義を持っていたかを考える上で、本書は大きな示唆を与えてくれる可能性があると思った。

 

 

森栄喜『Family Regained』展へ行きたい。

写真家・森栄喜さんの新作展『Family Regained』が9月8日から30日まで新宿のKEN NAKANISHIで開催中だ。今秋に出版される新作写真集から選りすぐりの作品が展示されているそうだ。展覧会に足を運ぶことはできないが、写真集は予約したから今から楽しみだ。

 

kennakahashi.net

短編アニメーション 『In A Heartbeat』

www.youtube.com

4分間の短編アニメーション In A Heartbeatが話題になっている。エステバン・ブラヴォー(Esteban Bravo)とベス・デイヴィッド(Beth David)という二人の若いアニメーション作家による短編で、リングリングカレッジ アート&デザインに卒業制作として提出された作品らしい。もともとは a-boy-meets-a-girl的な設定だったようだが、製作の過程において、少年Sherwinが別の少年に恋をする物語に変更された。

 

そのような変化の背景には、ディズニーやピクサーによるアニメーションや子供映画におけるLGBTQキャラクターの不可視という問題が考えられる。ドラマや映画においてLGBTQキャラクターの存在が少しずつ増えてきているとはいえ、メジャーなアニメーションや子供映画においてはLGBTQキャラクターの表象はハードルが高いように見える。そんな現状だからこそ、In A Heartbeatは欧米でときどき見られる「アニメーションは子供向け」という意見を逆手にとって、アニメーションという媒体で同性間の恋を描くことにしたそうだ。

 

たった四分間だが、誰かに恋心を抱くことのときめき、その恋心を公にすることが自らのセクシャル・オリエンテーションアウティングしてしまうことに対する恐れなど、丁寧に描かれている。ぜひほっこりしてもらいたい。来年の京都国際子ども映画祭で上映してくれないかな。

『メアリと魔法の花』(米林宏昌、2017年)

心待ちにしていたスタジオポノック第一作『メアリと魔法の花』(米林宏昌、2017年)を観てきたが、どう評価すれば良いのか分からない程に困惑している。公開前に読んだスタジオポノックのインタビューで、本作がスタジオジブリの『魔女の宅急便』を意識して作られたと記憶していたから、『魔女の宅急便』を初めて観たときのわくわくを別の形でもう一度体験できるかもしれないと期待していた。残念ながらその期待が満たされることはなかった。

 

気になった点をいくつか挙げておく。

 

・夜間飛行が咲く頻度。なぜ7年に一度なのか。なぜあの形状の花が「夜間」「飛行」という名前なのか。

・そもそもなぜ黒猫ティブはメアリを夜間飛行へ導いたのか。ティブとギブ(もう一匹の猫)が花を警戒しているのは明らか。もし猫たちが花に対してメアリに何かしてもらいたかったのだとしても、メアリが二匹の信頼に値すると判断できる要素/きっかけが不明瞭である。

・メアリの大叔母が冒頭の赤毛の魔女なのであれば、なぜ彼女が現在住んでいる土地に定住することになったのか。夜間飛行を見つけたかった? 根絶やしにしたかった?

フラナガンの役割は? マダムやドクターの手に余るような存在として描かれている印象。フラナガン宮崎駿

・敵役が雑魚過ぎる。赤毛や黒猫の使い魔が偉大な魔法使いの証なのであれば、なぜ警戒しないのか。

・魔法がしょぼい。「呪文の神髄」をメアリが初めて開ける時、いくつかの魔法がメアリの額から体内へ吸収されていく描写には、その後、メアリがそれらの魔法を使って何かしらの困難を乗り越えるのかもと期待した。しかし、メアリが使のはたった1つの魔法だけ。もちろん、その唯一使う魔法が物語において重要な鍵であることは確かだが、「呪文の神髄」をもっと活用しても良かったのでは? 公式HPのストーリーに、「メアリは、魔法の国から逃れるため『呪文の神髄』を手に入れて、すべての魔法を終わらせようとする」とあるが、実際の作品でメアリが「呪文の神髄」を手に入れるのは偶然の出来事であり、「魔法の国から逃れるため」でも「すべての魔法を終わらせ」るためでもない。

・メアリが魔法を解くことで助ける動物たちは、スタジオポノックのアニメーターたちなのか? 魔法や魔法使いが宮崎駿ジブリを連想させるものだとすれば、メアリが魔法を拒絶する展開は、スタジオポノックジブリとは異なる手法や形態で活動する表明?

・夜間飛行の効力が切れたはずのメアリがなぜ最後に飛ぶことができるのか? 「魔法が使えるのはこれで最後」的な発言をメアリがするが、「いや、あなた、しばらく前に魔法使えなくなったじゃん」と突っ込んでしまった。フラナガンがほうきを修理してくれるが、魔力を失い、折れてしまったほうきを修理し、再び魔力を授けることができるフラナガンの力の説明はないのか?