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No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真、絵画などについても感想などを述べていけたらと思っています。

コミュナルシネマとしてのホーム・ムーヴィーについて

ホーム・ムーヴィー

博士後期課程進学にあたり、他分野のゼミの先輩4人に研究会へ誘ってもらった。一つのトピックについて隔週一人ずつが10~15分のプレゼンを行なったあと、専門分野が異なる各自の視点から質疑応答をする。合計で1時間半ほどの議論を目標としている。

 

今回のトピックは「コミュニティ」。これまでの発表では、「数学論文における共同執筆者との関係性」と「英語教育における共同作業の有効性」について議論が行なわれた。僕の発表はまだ先なのだが、僕の発表内容は「コミュナルシネマとしてのホーム・ムーヴィーについて」を予定している。

 

まず、ホーム・ムーヴィーとは何か。ホーム・ムーヴィーとは本来家族という単位を構成する撮影者(主に父親/夫)と被写体(その他の家族構成員)の間で、家庭内のリビングルームといった極めて私的な空間で上映し、楽しまれる映画カテゴリーである。この特定の映画カテゴリーを成立させるためには、撮影者と被写体の間にある親密性がキャメラフレームの中(あるいはスクリーン上)に映し出されることが本質的条件なのではないかという点に関して、僕の修士論文では考察している(と思いたい)。ホーム・ムーヴィーとは、親密な関係性を築く家族(撮影者と被写体)の間で撮影され、上映を通して受容されるものであり、不特定多数の他者で溢れる公的空間において上映されることを前提としていない。

 

一方、2000年代初頭に始まった「ホームムービーの日」は、上述の「私的な」ホーム・ムーヴィーを地元の小さな映画館、学校、カフェ、焼き肉屋、図書館などの公的空間において、地域の不特定多数の観客と共有するイベントである。僕も昨年の京都会場の世話人として参加させてもらった。世話人は、各自が住む地域の家庭に眠るホーム・ムーヴィーを提供してくれる家族を探し、それらを「ホームムービーの日」で上映することだけでなく、フィルム保存の必要性について説明することも目標とする。フィルムの提供者と話し、提供されたフィルムらがどのようにして、いつ制作されたのか、といったフィルムに関する思い出を共有してもらう瞬間は、世話人として最高に楽しい一瞬であった。「ホームムービーの日」に提供されるフィルムは、家庭という私的空間から地域(コミュニティ)という公的空間へと移動し、家族以外の観客に受容される。

 

ホーム・ムーヴィーが家庭という文脈を抜け出すとき、ホーム・ムーヴィーは家族の記憶から地域の記憶として新たな意義を与えられる。観る人が異なれば、映像が持つ重層的な意味が異なる角度から発掘されるのだ。例えば、家族で行った地域のお祭りの様子を捉えたホーム・ムーヴィーは、人口の過疎化や伝統継続の困難により衰えていく祭りの過去の状況を教えてくれる。この映像によって、地域の過去を知り、現在の状況と照合することができる。映像として祭りといった地域の活動を後世に残すことで、後世の人々は過去を文字通り追体験できるのだ。それぞれの家族が見た過去の祭りの映像を集めることで、その特定の地域の特徴や文化などを祭りという文脈を通して確立することができるのではないだろうか。

 

ホーム・ムーヴィーがどのようにしてコミュナルシネマとなるのか。この点についてはもっと考察が必要である。家族や家庭という文脈からホーム・ムーヴィーが開放されるとき、それらの映画は果たしてホーム・ムーヴィーと呼べるのか否か。ホーム・ムーヴィーとコミュニティ、そしてネイションとの関係性についてはこれからの研究で考えていかなければならない。