No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

Postwar Japan in Film: 3rd week

"Postwar Japan in Film"第三週目は、小津安二郎の『お早よう』(1959年)の感想を中心に、戦後日本におけるホワイトカラー中流階級(middle-class)のconsumerismとmidle-class consciounessについて議論した。1955年以降、日本の経済成長期に日本家族にとって消費は何を意味したのか。

 

『お早よう』を未見の方はぜひこちらから。


Good Morning(1959)-Yasujirō Ozu - YouTube

 

今回の授業でまずスタンフォード大学生から挙った質問は、映画冒頭にある組合費問題について。戦時体制の銃後の国民生活を守るために形成された隣組という小共同体間の社会的つながりは、戦後日本にも引き継がれた。2014年、僕が住む京都の一部では隣組はまだ機能しているようだ。組合費を巡って繰り広げられる主婦間の会話内容はある種コミカルであるため、学生からは笑いも聞こえたが、主婦間に潜在的に存在する軋轢の原因が何なのか考えなければならない。その原因の一つが消費である。

 

『お早よう』において、登場人物が現金を取り出して商品を購入するシーンはない。本作でconmanとされる二人の押し売りのうち一人が鉛筆や輪ゴムを売りつけようとするが、映画のプロットが主に展開する住宅界隈では、じっさいそれらの物品に困っている様子はない。三宅邦子演じる母親・民子が押し売りを断るシーンでそれは明らかである。

 

今作を1959年代日本におけるconsumerismとmiddle-class consciounessと結びつけるために観客が注目すべきは、テレビや洗濯機といった電化製品である。映画冒頭に起こる組合費の行方を議論するシークエンスでは、杉村春子演じる、きく江一家が最近手に入れた洗濯機を購入する資金はどこから来たのか、組合費をくすねたのではないか、という噂が何処かからか流れてくる。このシークエンスでの杉村春子と三宅邦子の間に起こる切り返しショットを排除した会話から、二人の間で高まる軋轢を感じ取ることができる。彼女らが表面的に仲直りした後、小津によるほぼ90度の切り返しショットが復活する。

 

映画冒頭でもう一つ観客が気付くべき点は、TVと若いカップルの重要性である。この映画が主に展開する近隣で(おそらく)唯一テレビを持っているのが、キャバレーで働いていたという若いカップルの家だけ。子供達はここへ毎日のように足を運び、相撲といったスポーツを観ているのだ。子供達がその若いカップルから悪影響を受けないかと心配する親たちは、彼らの家へ寄りつかないように子供達に言い聞かせる。この若いカップルを毛嫌いする理由はこれだけだろうか?

 

このカップルは、この近隣で平衡が保たれているmiddle-class consciousnessにある種のひび、あるいは衝撃を与える存在と機能する。この近隣の家庭はサラリーマンの主人の収入によって成り立っている。えんぴつや輪ゴムといった物は、どこのサラリーマン家庭でも手に入れることができるが、テレビや洗濯機といった電化製品はどうだろうか?洗濯機を持つことは、平均的なmiddle-class communityの中において、杉村春子に優越感を感じさせているはずであった。家庭にある電化製品の質と数において、彼女の家庭は他のmiddle-class家庭より一つ上に位置しているのだから。しかしながら、必ずしも生活に必要のない娯楽電化製品であるテレビを購入し、若いカップルは昼間は何もせずのんびり暮している。そんな生活をしている彼らが、夜の仕事をしている(であろう)彼らが、なぜ自分たちと同じmiddle-class的な生活を営むことができるのか?ましてや、平均的な家庭が手を出すことができないテレビを買うことができるのか?消費というスケールの上では、このカップルはこの近隣のどの家庭よりも裕福であり、上に位置している。そんな彼らへの悔しさと妬みこそが、この近隣の主婦達が彼らを毛嫌いする潜在的な理由ではなかろうか。