Postwar Japan in Film: 7th week
"Postwar Japan in Film"の第七週目授業は、伊丹十三『マルサの女』(1987年)を取り上げて、「この映画に登場するヒロインはどのようにして誕生したのか」という問いを中心に議論した。
『マルサの女』を未見の方はこちらから。
金曜ロードショーなどの映画番組で何度も放映されたこともあり、この作品はとても懐かしい思いがした。今回は、戦後日本(80年代だともはや戦後ではないが)において、男性社会の中で女性がいかに仕事をするか、という視点を持ちながら観たので新鮮だった。
宮本信子演じる板倉亮子のキャラクター性は、このコメディ映画の中で非常に輝いている。彼女の立ち振る舞いや、やくざに囲まれて脅えた様子を見せながらも果敢に脱税摘発に取り組む彼女の姿や表情は清々しい気持ちにさせる。しかし、ほぼ100パーセント男性社会であるマルサの世界に飛び込み、女性の視点からその世界を風刺するという姿勢をこの映画は採用しない。どちらかと言うと、シングルマザーの女性(80年代のシングルマザー率は気になる)が、一人で子供を育てるために頑張って仕事をする姿を応援しているのではなく、母親と父親という両方の役割をこなそうと奮闘する亮子の不完全な面を隠さず提示することで、家庭を犠牲にして働く者、その環境を作っている社会構成を婉曲的に批判しているのだと思う。
その犠牲は、金儲けを生き甲斐とする山崎努演じるラブホテル経営者の権藤にも共通している。金儲けを優先してきた生活のせいで、内縁の妻と一人息子に対して誠実に向き合えてはいない。息子は非行に走ることはないが、自分がどのような状況にあるのかを把握できていない(もしくはしようとしない)父親に向かって不信感や苛立ちを抱いていることは、映画終盤のシーンで明らかになる。
そのシーンは、亮子の母性性が欠落していないことを提示する。権藤の息子を追いかけ、説得し、権藤の家まで無事に連れて帰る亮子。彼女がとった行動や言動の一つ一つは、彼女が彼女自身の子供へと語りかけているようにも思える。こういった展開は、男性社会の中で働く女性の生き様を描写するなかで、伊丹十三が観客のために保険として含めたのではないだろうか。
正確な興行収入を把握できていないが、『マルサの女』がヒット作だったことは間違いない。翌年には『マルサの女2』が上映されたことを考えると、一般的に税金をきちんと収めているサラリーマン層の観客らにとって、脱税をしている者達が取り締まりをうける内容は壮快だったのだろう。
『マルサの女2』はこちらから。