No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

映画『マレフィセント』(2014):おでこにキスでもキスはキス(*ネタバレあり)

ロバート・ストロンバーグ監督の『マレフィセント』(Meleficent、2014)を3D・DOLBY-ATMOSで観てきた。1959年公開のクライド・ジェロニミ監督による『眠れる森の美女』に登場する「魔女」マレフィセントを中心人物とし、マレフィセントが王女オーロラにかける呪いへの理由と真実が描かれる。アニメーションの方を観たことがない観客でも、大体のあらすじは知っているだろうから、観客問わず楽しめる作品だ。

 


『マレフィセント』予告編 - YouTube

 

今作は日本でも大ヒットを続けている『アナと雪の女王』(2013)にてディズニーが挑戦したことを引き続き問う。それは「真実の愛とは一体なにか」という、普遍的でありながらも、簡単には答えられない、いわば究極の問い。1980年代半ばから現在まで継続するディズニー・ルネッサンス系譜において、「王子が王女にキスをする」「王女の一目惚れ」などの要素は、おそらく誰しもがディズニー映画に抱いているものである。つまり、異性愛主義的社会が優先して描かれてきた。しかし、『アナと雪の女王』では「真実の愛の表現」(an act of true love)への答えは、王女アナと王子ハンスでも氷売りクリストフとの間ではなく、アナとエルサという二人の姉妹の愛情によって体現された。異性愛主義的な男女間の(肉体的)愛の表象であるキスではなく、アナが身をていしてエルサを守ることによって。では、『マレフィセント』は『アナと雪の女王』をどのように引き継いでいるのか。

 

本作はマレフィセントとオーロラ王女の父であるステファンの出会いから始まる。他の妖精とは体格も容姿も異なるがマレフィセントは「魔女」ではなく「妖精」として設定されている。妖精たちが住むムーア国と人間が治める国は長い間対立しているが、妖精マレフィセントと人間の少年ステファンの出会いと友情は、二つの国の明るい未来を示すかのように見える。16歳になったマレフィセントはステファンを心から愛し、彼と「真実の愛のキス」を交わす。しかしながら、人間の欲望と野望に飲まれたステファンはマレフィセントからいつからか身を置くと同時に、マレフィセントは最強の妖精としてムーア国の守護神となる。人間が到底敵うことができない強大な存在となったマレフィセントであったが、大人になったステファンとの再会は彼女の心を彼に許してしまうが故、彼女の力のシンボルでもあった翼をもぎとられてしまう。ステファンのそのような仕打ちに対して、マフィセントは生まれたばかりの王女オーロラに呪いをかける。16歳の誕生日の日没、彼女は糸車の針に指を刺し、永遠の眠りに落ちる。その呪いを砕くのは、そう、真実の愛によるキスだけ。

 

上映時間97分は観客を飽きさせずに、マレフィセントがなぜオーロラに呪いをかけたのか、そして本作の目玉でもあるオーロラに対するゴッドマザー的役割を果たすマレフィセントを描くことで、1959年の『眠れる森の美女』において構築されたマレフィセントのイメージを払拭する。少なくとも、これまでの観客にとって馴染みのない彼女が提示されている。オーロラの成長を陰ながら見守り続けるマレフィセントは、いつの日からかオーロラを愛しく思い始める。もっとも、彼女がオーロラ自身を憎む要素はこの映画にはなく、呪いの原因はすべてステファンに対する憎悪にある。美しく、優しく成長していくオーロラはマレフィセントを信頼し、愛している。それを痛いほど感じるマレフィセントは、自分がかけた呪いまでも解こうと挑戦する。

 

マレフィセント自身にでさえ成す術もなく、オーロラは眠りにつく。恐らく登場時間10分にも満たない、王子フィリップのぎこちないキスでも彼女は目を覚ますことはない。キスを急かす三人の妖精に対するフィリップ王子の対応は『アナと雪の女王』のクリストフに似ている。「出会ったばかりで婚約するなんて」というアナに対するクリストフの批判は、マレフィセントと共にオーロラの成長を見守ってきた観客が王子フィリップのキスに対する批判と同義だろう。『アナと雪の女王』のアナとクリストフの場合は、エルサの宮殿までの道のりを共に歩み交流することで二人の間に何らかの化学反応があってもおかしくないという可能性を残すが、本作の場合は、いくらなんでも登場している時間総計が少ない王子フィリップが「真実の愛のキス」を成し遂げられるわけがない。

 

では、オーロラ姫を救うのは誰か?完全なるネタバレであるが、マレフィセントによるオーロラへのキスが彼女を永遠の眠りから目覚めさせる。マレフィセント自身、「真実の愛のキス」は王子フィリップによる口づけだと信じていた。彼の口づけに救えないのであれば、他に手はないと落胆し、眠り続けるオーロラ姫を一生見守り続けると誓い、おでこにゆっくりとキスをする。まるで母親が眠りについた娘にするような、優しいキス。実の親のようにオーロラを見守り続けてきたマレフィセントによる愛情こそが「真実の愛」であり、永遠の眠りについたオーロラを想い涙を流せる者こそが「真実の愛のキス」を体現することができるのだ。

 

本作は『アナと雪の女王』で二人の姉妹が提示したように、男女間という異性愛主義に直結された「愛」の形からマレフィセントとオーロラを解放している。この物語の中心人物はこの二人の人物であり、映画の最後でも彼女達をフレームの中心に据えることでそれを明確に示している。少なくともこの映画の枠からは異性愛主義的恋愛関係による「真実の愛」はとりあえず排除されていることが、本作が『アナと雪の女王』で達成されたことを表面的には引き継いでいるのだと思う。

 

私が上記に「少なくとも」と記した理由は、本作が男女間異性愛主義から完全に脱出していないし、他にも問題を残しているからだ。マレフィセントとステファンの間には異人種的恋愛関係が存在する。二人は決して交わることができない間柄として描かれ、マレフィセントの翼がもがれることは女の処女性が奪われることを想起させる。実際、一人の女性の処女を比喩的にうばいとったステファンは男として讃えられ、別の女と子供を作っている。結婚前に処女を失ったマレフィセントは女として扱われることなく、「魔女」として扱われる。オーロラへの眼差しは自分がなることが出来ない・出来なかった母親としての眼差しであり、親代わりにオーロラを育てる三人の妖精に代わって、育児をつとめることで、ステファンとの間に叶わなかった可能性を満たしているのかもしれない。

 

本作についてもう一点納得ができなかったというか、どういう意図あったのか気になる点は、妖精と人間の二つの国を治める女王としてオーロラが選出されることだ。彼女の知性を図るシーンは本作においては存在しないが、彼女が知性溢れる存在しているシーンもない。映画最後には、彼女の視線の先に王子フィリップを置くことで二人が将来的に結婚することはある意味明確に提示されている。だが、思い出してほしい。『アナと雪の女王』においてアナが王子ハンスに一目惚れするように、オーロラ姫もフィリップ王子に一目惚れをしていることは明らかである。また、フィリップ王子は自分の父親に命令されてステファン王へ会いに行くところだったのだ。フィリップ王子はステファン王に何を訊ねるつもりであったのか?もし、フィリップ王子がハンス王子と同じ境遇にいるとしたら、オーロラもまたアナのように、「真実の愛」を体現するかもしれない男にだまされるのか?