No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

誰に感情移入すればいいのか〜『インサイド・ヘッド』(2015年)

ピート・ドクター監督の『インサイド・ヘッド』(Inside Out、2015年)を公開日に観てきたんだが、感想を書こうと思って色々考えていたら、いつの間にか時間が経ってしまったので、気になった点だけ書いておきたい。

 


「インサイド・ヘッド」ストーリー予告 - YouTube

 

まず、ピクサー長編アニメーション20周年記念ということで、その気合いを映像から感じることができるし、キャラクターの絵柄も親しみやすい作品だ。

 

ただ、ディズニーの『アナと雪の女王』みたいに色んな国の観客みんなが共感できる作品ではないのかもしれない、という印象を同時に抱いた。私自身アメリカの大学に留学していたためか、登場人物の感情表現の仕方はとてもアメリカ人的な表現だなーと思う箇所も多くあった。この作品を一緒に見にいった友人は、うまく物語に入っていけなかったとあとで教えてくれたのだが、アメリカ人観客を意識した作品に理由があるのかもしれない。物語はよく出来ているし、面白かったんだが、『インサイド・ヘッド』は観客に感情移入を促す仕組みがうまく成りなっていない気がする(一度しか見ていないから、もう一回見ると意見は大きく変わる可能性はあるが)。

 

アニメーションも物語映画も、登場人物の視点ショットを通して、彼/女らが見ているものを観客が共有することで、物語世界に没入することを可能としている、というのが映画学でよく言われる。『インサイド・ヘッド』には、物語の重要な登場人物としてまずライリー、そして彼女の感情たちがいる。感情のなかでは、とりわけヨロコビとカナシミに焦点が当てられている。感情たちは、ライリーの視線を通してライリーが見ているものを見て、ライリーが体験することに呼応してそれぞれの役割を果たす。感情が役割を果たすたびにメモリーが生まれ、特別なメモリーは人間の性格を形成するのに重要なコア・メモリーとなる、という仕組みは大変面白い。ときおり、メモリーボール(?)へプロジェクターのように光を当てて、まるで映画のワンシーンを見ているかのようにライリーの思い出のワンシーンを感情たちが見る様子が描かれる。

 

このメモリーこそが『インサイド・ヘッド』の魅力であり、問題点だと思った。感情たちはライリーの視線を通してしかライリーが住む世界を見ることができないのに、ライリーの記憶が映写されるとき、感情たちはライリーから離れた視点/地点からライリーを眺める形をとっている。これではライリーの周囲にいた人たちの視点からライリーを眺めていると解釈することもできるのではないか?と不思議に思った。ライリーの夢を制作するシーンでは、まさにライリーの視点から見た空間が目前に広がっている形でスクリーンに提示されており、あの視点ショットこそが、感情たちが通常見ているものを表しているのではないだろうか。

 

ライリーの感情たちが物語にとって重要なわけだから、それぞれの感情がライリーをコントロールすることでライリーがどのように感情表現を行うのかを見せるために、ライリーの様子を描くことに問題はない。問題は、メモリーボールで思い出を映写するとき、誰の視点を通してライリーを見ているのかということがはっきりしなかった点に違和感を持ったという点だ。

 

何度も言うが作品としては面白かった。ヨロコビの髪の毛の色と目の色がカナシミのものと同色という時点で、ヨロコビとカナシミの関係性が映画冒頭から分かってしまったのはちょっと残念だったけど。

 

あっあと、この映画は子供がいる親じゃないと共感できないんです!ていう感想は聞き飽きた。子供がいない人にだって感情はあるでしょ。