No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

クィア映画とは何か? Part 1(Queer Images, p. 9~10)

クィア映画と一言で表しても、実際のところ、それがどういう映画を指すのかを説明するのは容易ではない。日本映画史におけるクィア映画を研究しようと考えても、そもそもクィア映画がなんなのかを知らなければ、良い発見ができない可能性が(かなり)高い。僕自身クィア映画の定義が曖昧になってしまっている部分があるので(恥ずかしい)、今回と次回はHarry M. BenshoffとSean GriffinによるQueer Images:  A History of Gay And Lesbian Film in Americaから"What Is Queer Film?"の節を復習する。BenshoffとGriffinの議論はアメリカ映画史を前提にしているため、アメリカ以外で製作された映画を分析する際に彼らの議論をそのまま援用することについては熟考を必要とすることは先に断っておく。

 

BenshoffとGriffinによれば、「クィア映画とは何か?」という問いを答えるために少なくとも五つの方法がある。たぶんもっとも自明なものは、もし映画がクィアな登場人物を扱っている場合、それはクィア映画と言えるということである。最近のアメリカ映画では、クィアな登場人物がときどき脇役や主役として現れることもあるが、1960年代以前のアメリカ映画ではゲイ、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーといったクィア・キャラクターの存在を認めることはめったになかった。

 

それは所謂ヘイズ・コードと呼ばれた、1934年から60年代中盤にかけて自主検閲として機能していたHollywood Production Codeが「性倒錯 "sex perversion"」の表象を積極的に禁止したためである。単婚遵守と生殖のためのintercourseを目的としたもの以外の異性愛間セックスも検閲の対象となり、ハリウッドのプロダクションコードは、いわゆる「正しいセクシュアリティ "proper sexuality"」(竹村和子さんが呼んだものと同じ?)のみが映画において描かれるべきだと主張した。

 

しかし、古典期のハリウッドには、登場人物のクィアネスを暗示する演出を行った映画監督たちもいたわけで、そういった監督たちの作品には「内包的なホモセクシュアリティ "connotative homosexuality"」を登場人物の立ち振舞い、衣装、口語パターンに見ることができる。たとえば、男性登場人物は過剰にめめしく、女性登場人物は勇ましく表象された。これらの登場人物は自主検閲の網を逃れ、多くの観客はそれらの登場人物を同性愛者だと理解した。現在の視点から見れば、ほのめかされたホモセクシュアリティと伝統的なジェンダー規範からの逸脱によって、これらの登場人物たちはクィアとして認識することができるだろう。

 

しかし、ほんの少しのクィア・キャラクターの存在が映画をクィア映画にするのだろうか?いくらかの映画は同性愛嫌悪に溢れたジョークの対象としてクィア・キャラクターを描くこともあるが、批評家や映画観客の多くはそのような映画をクィア映画としてみなさないだろう。おそらく、クィア・キャラクターを扱うと同時に--軽蔑的でも搾取的でもない形で--彼/女らが直面する問題を有意義な形で描写するものこそが、クィア映画と呼べるのだ。

 

クィア映画を定義する二つ目の方法は作家性を通してである。クィアな人々(? queer people)によって書かれ、演出され、または製作される時、あるいはレズビアン、ゲイといったクィアな俳優たちが出演する時、映画はクィアであると言えるかもしれない。バーバラ・ハマー(Barbara Hammer)のレズビアンフェミニスト映画や1990年代のいわゆるニュー・クィア・シネマ(New Queer Cinema)は、レズビアン、ゲイ、あるいはクィアであると自己認識している人々によって製作された映画の良い例である。多くの場合、それらの作品はレズビアン、ゲイ、あるいはクィアな登場人物や俳優を出演させる。

 

だが、それではジョージ・キューカー、ジェームズ・ウェイル、またはドロシー・アーツナーといった同性愛者であった映画監督によってハリウッドの古典期において監督された作品の場合はどうだろうか。彼/女らの映画の多くは、明白な同性愛者や関連した問題を含んでいなかった(なぜなら不可能であったから)。現在の作品を例に出すとすれば、最近のハリウッドのサイエンス・フィクション大ヒット作は--明白な同性愛的キャラクターは欠落しつつも、同性愛者によって監督(製作)された、あるいは同性愛者の俳優が出演する作品である場合--クィア映画と考えられるべきだろうか。多くの場合、たとえ作品中に明白なゲイやレズビアンの登場人物や関連した問題が存在しない時でさえも、クィアな映画制作者たちは彼らの作品においてクィアな感性(queer sensibility)を屈折させることができる。したがって、クィアな映画監督によって作られた「正常」とされる映画はクィア映画としてみなせるかもしれない。

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次回は10ページ目の途中から。

 

Queer Images: A History of Gay And Lesbian Film in America (Genre and Beyond)

Queer Images: A History of Gay And Lesbian Film in America (Genre and Beyond)