No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

クィア映画とは何か? Part 2(Queer Images, p. 10~12)

前回に引き続き、今回も「クィア映画とは何か?」という問いについてBenshoffとGriffinのQueer Imagesを使って復習したい。

 

クィア映画を定義するための第三の視点は、観客性(spectatorship)の問題である。この視点に従うならば、クィア映画とはレズビアン、ゲイ、またはクィアな観客によって観られる映画である。言い換えれば、クィアな視点から解釈されるとき、すべての映画はクィア映画であるかもしれない。クィアな視点とはつまり、ジェンダーセクシュアリティについての支配的な憶説に挑むものである。多くの場合、レズビアン、ゲイ、あるいはクィアな人々は、ストレートの観客とは異なる映画体験をする。歴史的に見れば、「キャンプ camp」として知られる、ハリウッド映画を「肌理に逆らって "against the grain"」解釈する全体システムは、明らかにストレートな映画をクィアすることで、20世紀初頭のゲイ・カルチャーにおいて事実上発展した。

 

もっと最近の映画作品を挙げよう。たとえば、断固として異性愛的な登場人物に焦点を当てた、トニー・スコット監督の『トップガン』(1986)はたくましい軍人のアクション映画であるが、クィア・カルト映画として受容されている。なぜなら、この映画には男性の肉体美が絶え間なく提示されるだけでなく、示唆に富むシャレや強烈なホモソーシャル的な絆が見られるからである。(1994年に公開されたロリー・ケリー監督の『スリープ・ウィズ・ミー』では、クエンティン・タランティーノ演じる登場人物が『トップガン』は実は男性主人公が自身のホモセクシュアリティと向き合おうとする葛藤を描いた映画だと簡潔に述べる。)『トップガン』は--クィアお気に入りの『オズの魔法使』のように--多くの映画観客にとってはクィア映画ではないかもしれない。けれども、観客性のパラダイムによれば、この映画をクィア映画と解釈することもできるだろう。クィア映画理論家のクレア・ワトリングがレズビアン観客性について議論したように、映画は「個々の(あるいは集団の)観客によってレズビアン化される」のだ。この議論の良い点は、実際問題として(in practice)、映画のレズビアン解釈は観客の中にいるレズビアンの数と同じくらいあるということである。

 

クィア映画を概念化する(conceptualize)次の方法は、様々な映画作品や映画ジャンルがクィアかもしれないと考えられる側面を考察することである。たとえば、ホラー映画はクィアとみなすことが可能な奇怪で恐るべきセクシュアリティをしばしば描く。サイエンス・フィクションとファンタジーのジャンルもまた新しくて多彩なアイデンティティセクシュアリティを描写する(大抵、ホラー映画よりももっと中立で肯定的に)。ハリウッド・ミュージカルもまたクィアな形式であると考えられる。ミュージカル映画の物語は通例的に登場人物たちのヘテロセクュアリティを主張する(insistent upon)が、ミュージカルは(ホラー映画やサイエンス・フィクション映画のように)、ほとんど何でも起こりうるという、現実を超越した(hyperreal)世界観を作り出す。アニメーション(伝統的なセル画から現代のCGIに至るまで)もまた、クィアな学説を立てること(? queer theorizing)、現実と非現実(の境界?)をぼんやりさせること、アイデンティティを流動的に表象すること、変身(shape shifting)と性転換が不自然ではない空想的な空間を想像することに適している(lend itself to)。最後に、もしハリウッドの映画制作をアメリカ式(異性愛主義)映画制作の支配的モードと仮定するならば、アヴァン・ギャルド、ドキュメンタリー、あるいは他のインディペンデント映画のタイプもクィアであるという感覚もある。そのような映画は、ハリウッド映画よりも頻繁にクィアな登場人物や問題を表象する傾向にあるだけでなく、構造と形式はハリウッド式物語と異性愛ロマンスの強調を批判することを許す。

 

クィア映画を定義するための第四の視点へ議論を移す。登場人物を見つめることと登場人物への同一化の心理的プロセス、つまりまさしく映画体験そのものがクィアとして考えられるかもしれない。多くのハリウッド映画において、観客は物語の中心人物へ同一化すること(そして彼/女らの視線を通して見ること)が奨励される。これらの登場人物は伝統的に白人の男性異性愛者であるが、女性、有色人種、あるいはクィアな人々の場合もある。物語映画最大の力(そして快楽)のひとつは、観客に他の人々の視線を通して世界を経験させることができる点である。(同一化の自由な遊びは、プレイヤー個々がどんなジェンダー、人種、セクシュアリティも選択し遊ぶことができるThe SIMSといったコンピューターゲームの魅力のひとつと似ている。)ワトリングはさらに次のように提唱する。「クィア自認な観客として、われわれは適当な対象へ同一化するために欲望を制限しない。われわれの欲望はむしろ、映画の空想的空間において比較的完全な自由(have free rein)を有する。」とは言っても(That said)、このクィアな自己同一化の遊びもまた、主流なハリウッド映画において明らかなゲイやレズビアンの登場人物が頻繁に登場しない理由のひとつかもしれない。なぜなら、異性愛者の観客の多くはクィアな登場人物の世界観(worldview)を見ることに依然抵抗があるからである。心理的な見地から言えば、クィアな登場人物への同一化の行為は、彼/女のジェンダーあるいはセクシュアリティの感覚を脅かすのだ。同様に、男性の多くは女性登場人物へ自己同一化することを難しく思う。チックフリック(chick flick)またはクィア映画を観に行くことは、いくらかの男性にとって彼らの男性性の感覚に危険を及ぼす可能性を提示する。なぜなら、それらの映画に関心を示すことは彼らの推定された家父長的権威への挑戦を示すことになるからである。

 

前回と今回の記事で紹介した、クィア映画を定義するための五つの視点は互いに重複し、またぼやける傾向にある。クィアな映画制作者たちは、クィアな内容やジャンルに囚われることなく映画を作ることができる。もっとも奇怪なクィア・ホラー映画のいくつかは現在誰でも安心して観られるものであり(g-rated)、表面上はもっとも異性愛主義な映画がクィア・カルト映画になることもある。異性愛者と自認している者(self-identified heterosexuals)はクィア映画を作ることができるし、クィア理論の概念が主流文化において徐々に浸透するにつれて、ますますその傾向は増加している。たとえば、マイク・ニコルズ監督の『バードケージ』(1996年)は異性愛自認の男性と女性(マイク・ニコルズとエレイン・メイ)によって脚本・監督され、異性愛自認の俳優たち(ロビン・ウィリアムズジーン・ハックマン、そしてハンク・アザリア)が大部分出演した。(主要人物のひとりを演じたネイサン・レインは撮影時においてまだ公にカミング・アウトしていなかった。)それでもなお(nonetheless)、たくさんの人々は、ドラッグ・クイーンとゲイカップルを主題とした『バードケージ』をクィア映画として(少なくともゲイ映画として)おそらく捉えるだろう。けれども、『バードケージ』が多くの観客に肯定的に受容された一方で、他の観客はありふれた描写だと捉え、またいくらかの批評家たとは実際のゲイ(あるいはクィア)の作家性の欠落を強く批判した。クィアな観客の多くは、異性愛自認の映画制作者たちがクィアな生活や問題を描こうとする時、非常に用心深くなる。それは、簡潔に言って、ハリウッドの異性愛主義の映画制作者たちがほぼ100年にも渡って乏しい結果しか生み出していないからである。

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以上、BenshoffとGriffinのQueer Imagesから「クィア映画とは何か?」という問いと答えを考察する節のまとめを終える。

 

英語のままであれば理解できるけど、self-identified heterosexualsやqueerという言葉を日本語にうまく翻訳できないのが悔しい。翻訳されたものと照らし合わせて対訳を確認するしかないか。

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