からっぽさのなかに滲み出る〜寺田健人「NEW SHELTER?」
写真家・寺田健人の個展「NEW SHELTER?」へ行ってきた。彼の作品はこれまで可能な限り見ていて、今回は「トイレ」がテーマだと聞いてワクワクしながら個展を覗いた。
[展示のお知らせ]9月27日-29日の期間に銀座で展示します。会期は短いのですがオープニングとかパフォーマンスのSNSでライブ配信など東京以外からも参加できるようにしました。是非お越しください。 pic.twitter.com/Zms1b05GPC
— Kento Terada (@Isbn978_gst) September 3, 2019
写真はスライド形式で15分程度で一周する。全体で何枚あったか数えなかったが、便器やトイレットペーパー、清掃表など公衆トイレで目にするものが提示されていく。カシャ、カシャとスライドがゆっくりと変わっていく過程で色んな便器を眺める不思議な15分間だった。
スライド全体でトイレのなかに人間が写っていたのは三枚だけだったように思う。上半身裸の男、すね毛の目立つふくろはぎ、個室でペニスをゆるくしごく男。それら以外のトイレの写真では誰も写っておらず、「当然か」と思ったのだけど、なぜそれが「当然」なのか。依頼した被写体でもない限り、便器に向かって放尿している不特定の人物を撮影するのは隠し撮りでもしないと難しい。そこで気がついたのは寺田が被写体としているのは放尿や大便をする行為、あるいは落書きやオナニーをしている姿をまじまじと観察することではなくて、「からっぽさ」や「不在」なのかもしれないということだった。
一般的に公衆トイレは誰かが使うことを想定して作られ、誰かが実際ほぼ毎日使用している。清掃表を捉えた写真は、誰かが使用し汚れたトイレを掃除する人がいることを示す。つまり、トイレを使う人、トイレを清掃する人、そしてそのトイレを撮影する寺田という少なくとも三重の存在を感じさせる。存在を感じさせる、あるいは「かつてそこにあった」存在を想像させるにも拘わらず、実際は誰も写っていない「からっぽさ」がつきまとう。トイレや便器だけでなく、からっぽさは、空っぽのヤクルトの容器やおにぎりの包装紙、駐車場の「空き」マークなど、様々な形で反復されていく。その反復を見つめる人自身の経験が、トイレを出入りする人々、用を足す音、トイレットペーパーを巻き取る音、撮影された日の気温、撮影されたトイレに充満していただろう臭いなど、からっぽのトイレスケープを満たしていく。
反復され、充満するからっぽさに、トイレという空間自体が基本的に「満たされない場所」なのだと気づかされた。尿や大便は体外へと出ていくし、ハッテン場としてトイレを使う場合でも、行為の後には満たされない何かが残る。落書きやスプレーアートもそうかもしれない。他の場所では満たされない何かをトイレに放出して人は去って行く。体外から何かを出す行為の累積が寺田の作品に「からっぽさ」として滲み出てしまう。
寺田の作品を見て驚いたのはトイレが想像以上に綺麗な場所であることだ。自分自身の体験と重ねてみても、清潔なトイレで用を足すことを好む。清潔なトイレに人は集うのだ。そこは個展のタイトル「NEW SHELTER?」が示唆するように、クエスチョンマーク付の安全地帯なのだ。安心して体内から対外へと排泄物や体液を放出できる場所、吐き出されたもので満たされうる場所。おそらくだからこそ余計に寺田の作品に反復される「からっぽさ」が気になったのかもしれない。汚れとして蓄積される人々の排泄物や体液の名残、それらを清掃が洗浄していく。寺田のカメラは汚れが消される瞬間には間に合わない。しかしそれは、洗浄されつづけるトイレスケープの「からっぽさ」のなかに滲み出る、何かを想像させる力を持っている。
寺田健人のポートフォリオ↓