11月6日から3泊4日で資料調査のため東京へ行ってきた。
11月6日
投稿論文の校正作業が急に入ってしまったので予定より出発が遅くなった。ほとんど移動だけで終わってしまったが、事前にチェックしていた資料の複写作業を主に行った。
夜はMUBIでロベール・ブレッソン監督の『少女ムシェット』(1967)を鑑賞。罠にかかった動物の描き方はこの時代特有のもの?
11月7日
東京大学駒場キャンパスで開催された表象文化論学会研究発表集会に少しだけ参加。ミュージカル・コメディに関する発表と映画分析関連の発表が気になっていて、予定通り全部聞くことができた。
今村淳子(早稲田大学)、「見ること」から「創ること」へ--想田和弘監督『PEACE』をめぐって」
別の教室での発表後に参加したため、最初の内容を聞き逃してしまった。被写体を見るキャメラの視線が、被写体である人物や動物に「見返されること」を通して、撮る者と撮られる者のパワーバランスが逆転するという議論はあまり腑に落ちなかった。被写体がどんなにカメラの方を見返したとしても、撮る・記録する行為が持つある種の権力がわずかに残る可能性もありそう。二元論的に、どっちが弱者で強者かに分けてしまうことで見失うものがあるのではないか?ドキュメンタリーの手法やディジタルキャメラの技術面についても触れて欲しかったな。あと、車の中のラジオで流れている鳩山政権の話を被写体がまったく聞いている素振りを見せないことにも触れていたが、内容を聞くためじゃなくて、何かしらの音を車内にひびかせるためにラジオを流す運転手もいるんじゃなかろうか。
宮本明子、娘たちと「投げる」こと--小津安二郎後期作品における翻案と様式化
小津映画において娘たちがものを投げることの意味について。細かいところに気がつくなぁーと驚いたけど、「投げる」という言葉は僕にとって、ある程度距離の離れたところへ人なり物なりを放る印象があったから、発表が始まってすぐに電子辞書で「投げる」の意味を調べた。残念ながら僕の辞書はそこまで優秀じゃないので満足できる答えは得られなかった。「投げる」という言葉は蓮實重彦の小津映画映画評論から来ている。司会の長谷正人先生もそのことに触れ、「投げる」という言葉が宮本さんが紹介したシーンにおける娘たちの行為を表すのに適当か尋ねていたが僕もそこがすごく気になっていた。投げる以外によい言葉はないのか。
夜は時間が空いたため、テアトル新宿にて黒沢清監督の『岸辺の旅』と菊地健雄監督の『ディアーディアー』を鑑賞。疲れていたのもあってか、『岸辺の旅』は所々寝てしまったが、『ディアーディアー』は最初から最後まで釘付けになって見た。すべてはシカのせい。
11月8日
ひたすら資料調査。映画の台本を探していたので、神保町の矢口書店へ。木下惠介監督の『笛吹川』と『惜春鳥』のシナリオを購入した。どちらも構図に関する書き込みが多いから、脚本が映画へと仕上がる過程を想像するのに役立ちそうだ。『笛吹川』の脚本にはフィルムの断片が挟まっていた。
夜は岩波ホールにて、パトリシオ・グスマン監督の『真珠のボタン』(2015)を鑑賞。この映画はもう一度見たい。水の表象からインディオの虐殺の歴史へと導く過程は圧巻だった。
真珠のボタン - The Pearl Button - YouTube
11月9日
朝から夕方まで資料調査。木下惠介の1950年代作品に関する公開当時の新聞記事やプレスシートの確認作業をした。予想していた以上に資料が豊富だったので、来年もう一度行く必要がありそうだ。貴重な資料が見つかったのでいくらか複写した。
出発前までの疲れもあったためか、今回は身体的にかなりクタクタになった。少し詰め込みすぎたかなと反省している。もう少し余裕を持たねば。