No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

やっぱり我が家は最高!〜山田洋次監督『家族はつらいよ』

映画館で腹を抱えて笑うには、少しばかりの勇気がいる。外国のコメディ映画を見ていたとして、字幕が追いつく前にジョークで笑ってしまって周りのお客さんにうざがられる、なんて話はよく聞く。僕が笑うと怒られるかなと、いつも気を使ってしまうのが熟年夫婦の離婚話を主題にした映画だ。映画のなかで繰り広げられていることはかなりハチャメチャなのに、映画館の中はしーーーんとしたままという経験は両手の指だけじゃ足りない。

 


『家族はつらいよ』 予告編

 

山田洋次監督の最新作『家族はつらいよ』を見てきた。誕生日に見る映画じゃないかなーと一瞬悩んだが、どうせ見るならコメディがいい。シアターに入ると、僕以外に座っていたお客さんたちは年配の方が多い印象を受けた。この客層と映画がマッチしていたように思う。映画が始まってすぐにあちこちから大きな笑い声や拍手する音が聞こえた。おかげで僕も腹を抱えて笑うことができた。とくに鶴瓶が出てきた時は声をあげて笑ってしまって、さすがにちょっと恥ずかしかった。

 

東京家族』のキャストを使ってセルフパロディに仕上げた本作は、全体を通して笑えるポイントを用意しているだけでなく、山田監督が間違いなくオマージュを捧げている小津安二郎監督作品への引用も散りばめられているから、それを見つけるのも楽しみの一つだ。居酒屋での橋爪功の会話や佇まい、座る位置、『東京物語』が流れてからの橋爪功を捉える画面構成など、小津への敬愛にあふれた映画だなーと心打たれた。映画学の学生で、『家族はつらいよ』と小津作品の比較検討を試みる人もすぐに出てきそう。

 

妻夫木聡のキャラクターを、女々しい男と一言で表す評者もいるかもしれない。実際、他の男性キャラクターと比べると、そのような印象、というか二項対立的な比較は簡単にできると思う。妻夫木と結婚しようとする蒼井優(憲子という名前、なぜ憲法の憲にしたのだろう)に対して橋爪功が家父長的な発言をする場面では、妻夫木はその価値観を前近代的だと言う。自分の両親が冷徹に離婚した蒼井は、妻夫木の発言を完全に否定はしないまでも、両親の離婚について家族会議が開かれるほどの関係性を羨ましいと言う。この蒼井の発言が直後のドタバタを発生させるキーになるわけだが、僕は正直驚いたというか、腑に落ちなかった部分もある。

 

それはおそらく、この映画の結末にもつながる。老夫婦はけっきょく離婚はしない。『東京物語』を見ていた夫が妻に、感謝の気持ちを述べて離婚届に判をつく。妻は夫の言葉に感激し、離婚届を破り捨てる。夫が脱いだズボンや靴下を床に放り投げることを嫌っていた妻が、離婚届をビリビリと床に破き捨てていく。二人は和解し、夫がたたんであった靴下(とズボンもあった気がする)が映り込む。夫が少しだけ変化した瞬間である。観客としてこの結末に安心する一方、正直なところ物足りなさも感じた。もちろん、二時間の映画をあと半時間伸ばして離婚劇!を展開するような映画は見たくはないが、けっきょく離婚せずに落ち着いてしまうのか、と少し落胆した。

 

この映画にはトトという飼い犬が出てくる。そう、ヴィクター・フレミング監督の『オズの魔法使』に出てくる犬の名前と同じだ。『オズの魔法使』で卒論を書いた僕としては、この犬がいつになったら首輪とリーシュを振り払い、走り始めるのだろうと密かにわくわくしていた。このトトはおそらく夫にとって妻の代理ではないだろうか。夫が散歩をする時トトを連れて歩くが、彼が妻と並んで歩くことはない。だから、僕はこの犬が妻の代わりなのだと、夫は妻を離すことなく、いつまでも手綱を引いていたいのだと読んだ。トトが走り去る時、夫婦は離婚するのだろうと。

 

しかし、外で雨が降る映画の最後(嵐になるか?!)において、妻は離婚することをやめる。『東京物語』を見終わり、うたた寝をする夫をベッドで寝かしつける妻の姿を捉え、カメラはゆっくりと二階から一階へと移動する。トトはしっかりと鎖で繋がれ、雨が降る中、外の小屋で休んではいるが少し濡れているようにも見える。トトはどこへも走り去ることなく、エメラルド・シティでドロシーや仲間たちと冒険することもなく、ずっと鎖に繋がれたままである。

 

トトが雨に濡れることは、もしかすると老夫婦の間に起こった問題(水)を代わりに被った状態なのかもしれない。というのも、老父婦の妻が傘をさして雨の中自宅へ戻ってきた時、子供たちが壊した花瓶を嫁が片付けている様子が見え、その後、息子夫婦の間に少しばかり不穏なムードが流れると、夫が水をこぼし、テーブルが水浸しになる。家の中に水が入ることで、家は腐食し、ボロが出始め、最後には崩れ落ちる。この映画のオープニング・クレジットのタイトルのように。水の主題には十分注意できていなかったから、次回見る機会があれば、注目してみたい。

 

そういえば、夫がポイポイ脱いだ服を床に投げる演出って濱口監督の『ハッピーアワー』にもなかったけか。

 

A Random Thought on 3.11

Five years ago today, I was staying at my friends Jon and Nikki's apartment for their wedding. Feeling something weird in my stomach, I woke up in the middle of night just before Nikki walked in to tell me what was happening in Japan at that very moment. TV showed tsunami waves washing away people, houses, trees, and everything else that were in their way. Thousands of lives were taken on that day, the one we now remember by 3.11.

Two years later, I started MA program at Kyoto University to study about what an imaginary home might mean to us human beings because of the very images of houses being shuttered by the tsunami that had kept lingering in my head since 3. 11. For me, home movies/ videos through which we had formed the film representation of home/ homeness since 1895 seemed to be the key to understanding that. Chemically-decayed images on 8mm films, to me, looked as if memories within homes were being washed away by the tsunami (of time). At that time, I thought this research was the best means I got to consider the power of cinema for preserving the value of family and home. However, the result was I got sick of heteronormative values that were actually at the core of home movie/ video medium at least in Japanese cinema history.

Today, I am studying the imagery of family, queer, gender, and sexuality in post-war Japanese cinema as a process of learning about what and who has been excluded/ not been represented under hetronormative oppression. This oppression seems still strongly intact even in contemporary Japanese cinema. As five years passed since 3.11, the traditional values of heterosexual families are again reproduced over and over. What about those excluded from such values? Are we even listening to the voices of the excluded? Although I am not a PhD holder (I hope soon I will), I always think that a job of any academic scholars has to be in some way linked to excavating as well as shedding a light on what's missing from mainstream discussions. We must keep thinking and listening.

Just a random thought on 3.11.

『カルメン故郷に帰る』ロケ地の現在についてーー駅、小学校、カルメンの木

去年の日本映画学会で木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』について口頭発表してから、ずっとこの映画について考えている。

 

カルメン故郷に帰る』が公開されたのは1951年で、撮影は1950年だった。撮影から役66年経った今、ロケ地はどんな感じになっているのか気になったので少し調べてみた。

 

カルメン故郷に帰る』のロケ地は北軽井沢で行われた。地元のHPにある「北軽井沢と映画」では、北軽井沢で撮影された日本映画の代表作として紹介されている。

「北軽井沢映画年表」と題されたリストがあるんだが、日本映画研究でロケ—ション研究する時の良い資料になりそうだ。

 

カルメン故郷に帰る』で「北軽井沢」の文字が出てくるのは、リリー・カルメンとマヤ朱実が東京からやってくる直前の駅のシーンである。

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このシーンが撮影されたのが、旧草軽電鉄北軽井沢駅である。現在は駅舎モニュメントとして保存されている。

http://www.kita-karuizawa.jp/guide/ekisya.html

 

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↑HPから画像をお借りした。こんな感じになっているようだ。

 

次に、『カルメン故郷に帰る』の重要な舞台のひとつである小学校について。ロケが行われた時は、千ヶ滝小学校という名称で、現在は軽井沢中部小学校となっている。軽井沢中部小学校は、1956年に千ヶ滝分校、南小学校、そして軽井沢東小学校の一部を統合して設立されたらしいから、映画撮影当時は千ヶ滝分校が正しいのかもしれない。現在の学校の様子は、なんとなくだが、映画の中で子供たちが失明した田口先生が奏でるオルガンに合わせて歌い踊る場面を思い出さなくもない。

 

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軽井沢中部小学校 | 長野県軽井沢町公式ホームページ

 

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軽井沢中部小学校の校歌を聴くことができる。映画の中で子供たちが歌う《ああわが故郷》に似ているかも?と期待を寄せていたが、残念ながら似てはいなかった。

 

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小学校について 3月7日追記

先日映画の舞台となった千ヶ滝分校は現在軽井沢中部小学校となっていると書いたが、これは誤りだった。千ヶ滝分校は中部小学校に統合されたので、現在の中部小学校がある場所と千ヶ滝分校の所在は異なる。堂脇博の「「カルメン故郷に帰る」の再上映をみる」()によれば、千ヶ滝分校は「スーパー・マーケットに変身、隣はテニスコートになって若者たちがレジャーを楽しんでいる」とある(45)。この記事はもう30年近く前のものなので、おそらく2016年現在姿は違うだろう。

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最後に、カルメンが幼い頃に木の下で牛に蹴られた場所。

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最初に紹介したHPに北軽井沢の観光名所マップがあり、その中に、「カルメン故郷に帰る」の木というのがある。「えっ、まだあるの?」と驚いたんだが、下記サイトによれば、2015年8月時点でも立派に根付いているようだ。直接見てみたい。

area-rokumonsen.com

 

こちらのブログでも詳しくレポされている。

katsudo.exblog.jp

 

木下は信州で映画を作るのが好きだった。彼はなぜ信州を好んだのか。彼の映画に、信州の地域性は表れたのか。ロケーションの考察は日本映画研究においてはまだあまり行われていない分野なので、今後の発展に期待したい。

 

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カルメン故郷に帰る』とまったく関係がないようだが、最近吉幾三の「俺はぜったいプレスリー」を繰り返し聞いている。実は、この曲をもとに山田洋次が原案を書き、満友敬司が監督した『俺は田舎のプレスリー』という映画がある。『カルメン故郷に帰る』のパロディとも言える作品で、とても楽しい。

www.youtube.com

論文掲載のお知らせ

昨年の3月末に提出し、査読再審査などを経て掲載可となった論文がようやく刊行されました。

 

「切り返し編集による男性間の親密性表象--木下惠介『海の花火』をクィア映画として読む--」『人間・環境学』第24巻(京都大学大学院 人間・環境学研究科、2015)

 

おそらくデータで読めるものがアップされると思うので、その詳細が分かればこちらにも載せます。

 

 

「キャンプとゲイの感受性について」Part 2("Camp and the Gay Sensibility" p.41)

今回はPart 1の続きで、「皮肉」(irony)について。

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皮肉はキャンプの主題(subject matter)である。ここでいう皮肉とは、個人あるいはモノと文脈あるいは関連の間における、非常にちぐはぐした対照すべてを指す。もっとも不調和な対比は、男らしさと女らしさの対比である。いくつかのもっとも良い例は、キャンプとしての魅力をその両性具有的性質に負うスターの映画的パーソナリティに見ることができる。たとえば、グレタ・ガルボが男装するすべての映画ーーとりわけQueen Christina (『クリスチナ女王』、1933)ーーをあげることができる。また、男性的/女性的サインの省略をとおしてラディカルに去勢されることでポップ・スターのペルソナが完成される、Performanceにおけるミック・ジャガーなど。


Queen Christina (1933) Official Trailer - Greta Garbo Movie HD

 

別の対比として、若さと老いの対比がある。Sunset Boulevard(『サンセット大通り』、1950)におけるグロリア・スワンソンウィリアム・ホールデンの関係、あるいはHarold and Maude (『ハロルドとモード』、1971)におけるバッド・コートとルース・ゴードンの関係、さらにはMr. Skeffington(1944)やWhatever Happened to Baby Jane?(『何がジェーンに起こったのか?』、1962)におけるベティ・デイヴィスの役柄において、若さとのロマンチックな幻想に取り憑かれ、老いゆく現実を受け入れられない、年老いた利己的な女性が描かれる。

 

頻出度は低いが、他にも不調和な対比がある。神聖/不敬(The Picture of Dorian Gray、1945)、(霊的な)心/肉体(Summer and Smoke, 1961;The Roman Spring of Mrs. Stone, 1961)、ミュージカル(The Counterss of Monte Cristo, 1934)やメロドラマ(Ruby Gentry、1952)に見られる上流階級/労働階級の対比などがある。

 

不調和の認識の核心には、ゲイネスが道徳上逸脱しているという考え方がある。二人の男性あるいは二人の女性が恋に落ちることは、「正常さ」、「自然さ」、「健全さ」から外れており、不適当であると一般的に社会にみなされている。要するに、ゲイネスは道徳上間違いだと考えられている。

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次回はaestheticismのパート。少し長いから二回に分けようかな。

 

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「キャンプとゲイの感受性について」Part 1("Camp and the Gay Sensibility" p.40-41)

レズビアン・ゲイ・クィア映画に関する文献を読んでいると、「キャンプ(camp)」という言葉をよく見かける。このキャンプと一緒に「ゲイの感受性(the gay sensibility)」という言葉も頻出するが、「ゲイの感受性」とは一体なんのこっちゃという反応があって当然だと思う。今度の勉強会で、Jack Babuscioの"Camp and the Gay Sensibility"という論文について話をするので、今回から数回に分けて本論文を読んでいきたい。

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"Camp and the gay sensibility"

 

この論文におけるBabuscioの目的は、個々の映画作品、スター、映画監督がゲイの感受性を表す幾つかの方法を熟考することである。その探求を遂行するために、Babuscioは具体的に以下のような目標を挙げている。

 

  • キャンプのより簡潔な定義を示すこと
  • キャンプとゲイネスの関係性を確かめること
  • ゲイの感受性を促進する幾つかの社会的パターンとメカニズムを考えること
  • 従来見過ごされてきた映画の側面に関する議論を鼓舞するために、上記の考察を映画と関連づけること
  • ゲイの間における団結とより強大な自己同一化の感覚を奨励すること
  • 私たちが映画の中に見るものは真実でも現実でもなく、作りごとであることを読者に思い出させることーー個人の主観的な知覚による世界とその住人の認識であること
  • 私たちの多くが許容するよりも、芸術にはより多くの面白さがあり、その逆も可能であると議論すること

 

The gay sensibility ゲイの感受性/感性

Babuscioは、ゲイの感受性を主流とは異なる意識を反映する創造的エネルギーとして定義する。社会的抑圧から派生した人間精神の複雑さの強度な自覚ーー要するに、ゲイネスによって彩られ、形成され、そして定義された世界の見方である。そのような世界の見方は、特定の状況下の特質に対応して時代や場所によって変化する。今日の社会は人々を明確なタイプに分別されていると定義する。そのような標識付け手法は、個々のタイプが分極化されることを保証する。これらのカテゴリーに属する人々のために、「自然」や「正常」とされる性質の補足物が与えられる。このゆえに、異性愛は正常、自然、健康的な行動で、同性愛は異常、不自然、不健全な行動が分極化される。このような分極化のプロセスにおいて、この世界がどのようなもので、またそれとどう向き合うかについての見方と理解が発展する。ゲイにとって、そのような反応のひとつがキャンプである。

 

Camp キャンプ

キャンプという用語は、人、状況、あるいは活動における、ゲイの感受性を表す、あるいはそれによって作られた要素を描写する。キャンプはけっしてモノや人自体ではなく、むしろ活動、個々人、状況とゲイネスの関係性である。キャンプを有する人々(たとえば、キャンプ意識にある意味責任のあるバズビー・バークレーなど)はゲイである必要はない。ゲイネスとの関連は、人あるいはモノのキャンプ的側面がゲイの感受性によって見極められた時に構築される。すべてのゲイがキャンプに対して平等に反応したり、あるいは、何を含むか強調するかについて、我々のコミュニティーにおいて絶対的な総意が簡単に達せられると言っているわけではない。さらに、キャンプは見る人の視点に主として存するけれども、誰かや何かに特徴的なキャンプの趣を与える見方の潜在的な統一がゲイの間に取り残されている。次の四つの特徴がキャンプにとって基本であるーー皮肉(irony)、審美主義(aestheticism 唯美主義が適当か?)、演劇性(theatricality)、そしてユーモア(humor)である。

 

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次回はironyから。私が使っている論文はGays and Filmに所収されているが、以下の書籍にも所収されている。

Queer Cinema, The Film Reader (In Focus: Routledge Film Readers)

Queer Cinema, The Film Reader (In Focus: Routledge Film Readers)

 

 

「天女の口づけーー『お嬢さん乾杯!』における原節子」『ユリイカ』2016年2月号

本日発売の『ユリイカ』2016年2月号「特集*原節子と<昭和>の風景」に寄稿をさせていただきました。

 

久保豊「天女の口づけーー『お嬢さん乾杯!』における原節子」p.155-163

 

木下惠介監督の『お嬢さん乾杯!』において、「なぜ男性主人公が原節子演じるヒロインに一目惚れするのか」という疑問を出発点に、原節子クィア性を見ていこうという試みです。

 

その試みが成功したかかどうかは定かではありませんが、原節子の魅力をより一層知る良い機会となりました。博論でも原節子について議論できるんじゃないかとも考えるようになりました。

 

課題の多く残る論考ですが、書店や図書館で見かけましたら、ぜひ目を通していただけましたら幸いです。