No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

本ブログでは研究関連で読んでいる書籍、(新作)映画作品の紹介、日々の考察を中心に共有していきます。また、漫画、アニメ、小説、写真などについても感想などを述べていけたらと思っています。

【要約】Antoine Damiens, LGBTQ Film Festivals: Curating Queernessのチャプター1

 Antoine DamiensのLGBTQ Film Festivalsのチャプター1の要約を残しておきます。

 

Chapter 1 "Festivals that (did not) Matter: Festivals' Archival Practices and the Field Imaginary of Festival Studies"

・LGBTQ映画祭研究においてアーカイブ調査はどのように行うか。本書は周辺化され、また忘れ去られてきた映画祭に焦点を当てる。その作業は映画祭とは何か?という問いへ拡大されていくものであり、本章では映画祭をephemeral events(一時的な出来事)として定義することに挑む。映画祭研究の正当性は何か? どの映画祭が研究対象としてふさわしいのか? 本章では、「失敗した」、あるいは「続かなかった」映画祭に焦点を当てることで、映画祭研究を再想像する。

 

Cruising the Archives

・本章で最も重要な概念としてcruisingがある。クィアカルチャーにおける(性的な)出会いを求めて歩くcruisingを歴史的な資料との危険な出会いを達成するための視点として導入する。アーカイブ調査は痕跡や幽霊と出会うことであり、実際に資料に行きあたるよりも、ぶらぶらと探し回る過程(とそこで生じる疲労)の方がどきどきする感覚がある。

・cruisingという視点を使うことで、直線的な、異性愛規範的な時間性を遮断したり、あるいは一時的に引き伸ばしたりできる可能性に満ちた、歴史との想定していないエロティックな関係を結ぶことができるかもしれない。

 

Compromising Evidences: Ephemeral Traces in the Archives

・本書執筆に向けた調査の中でさまざまなアーカイブを訪れた。資料が整理され、きちんとデータベース化されているものもあれば、整理がまったく手付かずで調査がうまくできなかったものもある。

・これらの調査の中で見つけた一時的な映画祭には、たとえばポルノグラフィ上映を行った映画祭もあった。他にも「映画祭とは何か?」という定義からは溢れてしまうような映画祭がたくさんある。映画祭の定義から離れれば離れるほど、それらのマイナー映画祭に関する資料調査・収集は進まない傾向にある。映画祭チラシに開催日付がなかったりするものもある。

・マイナーなLGBTQ映画祭を網羅的に体系化することは不可能かもしれない。しかし、残された痕跡が明らかにするのは、多くのアーカイブにおいてこれらのマイナーな映画祭(が残した痕跡)に関する資料コレクションはないし、そもそもアーカイブの収集対象になっていない。

・本書は1970年代から1990年代にあった、アーカイブ化されてこなかった一時的な映画祭に焦点を当てる。

 

Unpacking the Archives: (Dis)ordering Ephemeral Traces

・痕跡と幽霊との予期せぬ出会いを求めるCruisingは、クィアな歴史を正当化する/隠すアーカイブ機関の役割に対して周波数を合わせることを可能にする。

・Problem archive (Ann Cvetkovich):忘れ去られた過去の貴重な指標となる証拠であり、かつアーカイブから何かが足りないことを矛盾を抱えながら思い出させてくれる。Moving imageに対するクィアな人々の投資は、アーカイブのせいで/があっても、十全には明示されない。資料はどこでどのようにアーカイブにたどり着くのか。

・ゲイやレズビアンの記憶や生活は公的なアーカイブからは忘れ去られ、また排除されてきた。可視性の認識論。クィアネスに関するムニョスの引用。一時的な幽霊の存在はいつでも見えるわけではないし、証拠として扱われるわけでもない。

・1970年代から1990年代のクィアLGBT(映画)アーカイブの発展の流れ(p. 46~47、後日詳細に書く)

・組織運営のアーカイブで収蔵されたゲイ&レズビアン関連の資料はアクセスの観点から考えると研究者にとっては便利かもしれない。

・コミュニティ・ベースのアーカイブの方が忘れ去られた映画祭の分析をする場所としてより適当かもしれない。特定のコミュニティで開催された映画祭、あるいはそのコミュニティで暮らすLGBTQの人々の生活の記録を残すことに焦点が当てられているため。ただ、こういった小さいアーカイブは人手が足りず、十分に資料が整理・カタログ化されていない場合が多く、リサーチできない可能性も否定できない(アクセスが拒否される場合もある)。

・LGBTQコミュニティに対する差別に関わってきた公的な視点(例えば検閲など)を持ってきた機関がLGBTQコミュニティに関するアーカイブを運営する皮肉。

アーカイブは中立ではない。アーカイブは常に知識を生成・序列させるし、他のものよりも特定の映画祭を可視化させる傾向もある。

 

Festivals that Did Not Matter: Festivals' Archival Practices and Historiography

・Julian Stringerが述べたように、映画祭は自分たちの歴史を自ら語ってきた。特定の映画サーキットの中で、どのような観客に向けて、どのような立ち位置を占めるのか。

・映画祭研究はすでに存在するテキストに依存しがちである。ただし、Loistが指摘するように、映画祭は自分たちの歴史を残す時間もリソースを持たないかもしれない不安定な文化的労働者によって運営されている。そのような状況の中で捨てられたり、忘れられたりする資料がある。それらの資料の中には、忘れ去られた映画祭に関する情報がたくさん残されている。フランスの映画祭などに関する記述(p.50)。

・大学が開催する映画祭に関するアーカイブとその内部に存在しうる(同性愛)差別。

・何が残され、何が残されないのか。自分たちの歴史を残すことに意識的である映画祭と、痕跡としか存在しない映画祭の歴史がある。ACT UPに関するコレクションの話(p.53)。

 

Making History: On Queer Festival Studies' Historical Project

・語られてきた歴史は常に断片的である。クィア映画祭に関する歴史がどのように残されてきたのか、その試みの内外を見る必要がある。クィア映画祭に関しては、Rhyne、Loist、Zielinskiの先行研究が先駆的。

クィア映画祭とアーカイブの流れ。phase 1)1980年代半ばに予算カットがあった。映画祭がプロフェッショナルな運営になった。エイズ危機の文脈において、映画祭はコミュニティ・ベースの委任を保ち、伝統的なメディアにおけるゲイやレズビアンの可視性から恩恵を受けた。phase 2) 1991-1995、ニュー・クィア・シネマの影響もあり、映画祭は商業主義に傾倒していく。phase 3) 1996-2001、クィアLGBT映画祭の国際化とスポンサーの増加。

・2001年からの技術的な革新とゲイ・ケーブルテレビとインターネットによる変化。

・Richardsが示すように、LGBTQ映画祭の発展と開発主義的な歴史の関係は新自由主義的な枠組みにおいて見逃すことはできない。

・映画祭の延命・長寿化・連続性について。(歴史的に)重要な映画祭として認識されてきたのは、無くなっていない/続いている、あるいは数年続いた映画祭のみ。そのような言説の中で失われてきた映画祭の歴史や痕跡は確実にある。

 

Festivals that Matter: Festival Studies' Field Imaginary, Methods, and Political Project

・映画祭研究において、なぜLGBTQ映画祭を研究するのか? その正当性を証明せざるをえない状況がある。LGBTQシネマは文化的価値の領域において複雑な立ち位置にある。映画監督、映画祭、そして研究者はアイデンティティと(正当な)アートの相互作用を常に協議しなければならない。なぜLGBTQ映画祭が重要なのか、クィア・シネマをシネマとして焦点を当てる必要性について説明を求められる。コミュニティにおける映画監督、映画祭、研究者の立ち位置だけでなく、コミュニティとそこに属する人々へ敬意を払うこと。

・本書が扱う一時的な映画祭は映画祭研究の規範と映画祭の定義を問い直す。一時的なイベントは伝統的な映画祭への焦点をずらす(p. 65)。映画祭の定義とは何か。

・labour of loveについて。

・ムニョスによるクィアネスの言及。「ここ」と「いま」の拒絶。