今週でやく2ヶ月半同社大学で開講されていたスタンフォード大学のプログラムが終了した。よって、Postwar Japan in Filmも今回が最後の授業となった。
残念ながら今週は議論をする枠はなかったのだが、今回は木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)を観た。戦後日本の家族、女性、政治、教育や男性にとっての労働とはというトピックを中心に進めてきた今期にとって、『二十四の瞳』の映画製作が行なわれた時期はそれらの時代から戦後へと逆行する形となった。
Nijushi no hitomi - Twenty-Four Eyes Trailer (1954 ...
しかし、『二十四の瞳』を観ることで、また高峰秀子や笠智衆といった、私たちが今期に観てきた映画に登場していた俳優を異なる映画で観ることで、戦後、戦中、戦後の小豆島に生きた女性と彼女が関わった子供達やコミュニティについて再発見することができたのではなかろうか。
この映画を観る前に、Duus教授は今作を"tearjerker"という単語で表現した。「お涙頂戴もの」という単語ひとつでは表しきることができない内容が今作には込められているが、戦争を経験した当時の日本人観客にとって、今作に登場する人々や今作が提示する事象は円滑な自己同一化を経験することを可能としたはずである。その結果、黒澤明の『七人の侍』を退ける形で、1954年のキネマ旬報において『二十四の瞳』はベストテン一位を獲得している。
高峰秀子に注目するならば、今作の中で彼女はよく泣く。泣き過ぎだという程に泣く。彼女の涙は誰の涙なのか?戦争で子供を失くした母の涙か?故郷を離れて戦地へ向かった少年たちの涙か?彼女の涙は『二十四の瞳』という枠組みの中だけで消費しきることはできない。戦争中に泣くことができなかった者たちの代わりに泣いているのかもしれない。高峰演じる大石先生が浮かべる笑顔は、何層もの感情で成り立っている。笑顔と涙を繰り返す大石先生/高峰秀子が時折見せる、何とも言えない表情。あの表情が何を意味しているのかを具体的に文字化することを次の目標としたい。