下北沢のDARWIN ROOMで開催された第二回LGBTスタディーズ「多様な性のあり方」 にて、東海林毅監督の『老ナルキソス』を観た。第27回レインボー・リール東京をはじめ、国内外の様々な映画祭で賞を獲得している作品で、昨年からずっと気になっていた。
国内外の昨今のLGBT映画・クィア映画が若さを物語の中心に置く傾向にある。『Starting Over』(西原孝至、2014)、『春みたいだ』(シガヤダイスケ、2017)、『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ、2017)、『彼の見つめる先に』(ダニエル・ヒベイノ、2014)といった作品が例に挙げられるだろう。LGBT映画・クィア映画を取り巻くこのような状況のなか、『老ナルキソス』は古稀間近のゲイ男性を主人公に据え、国際映画祭マーケットで不可視化されやすい老人の性的欲望をSMやスパンキングという行為を通じて描く。その意味で本作は非常に野心的な作品だといえる。
本作最大の面白さは、田村泰二郎演じる主人公・山崎の老いた身体だ。シワだらけの顔や首、筋肉が衰え垂れ下がった胸やたるんだ腹、堅さを失った尻。山崎の相手をする20代半ばのレオ(高橋里央)の裸は上半身だけが提示される。彼の身体もまたさほど筋肉質というわけではないが、柔らかさの中にしっかりとした堅さとみずみずしさが存在するのはスクリーンを通しても明らかだった。「若い頃の僕は自分が痛めつけられる姿に酔っていた。でも、いつからかそうはならなくなった」という台詞が示すように、山崎は自己陶酔に溺れることで、痛みを経路に快楽を得てきた。「いつからか」という言葉には、時間によって残酷にも奪われた自己の美しさへの切望さえも感じられた。
もう一つ面白かったのは横顔への視線だ。レオの横顔に対する視線は似顔絵と具現化されていたし、湖面に映る自分の顔を見つめるナルキッソスもまたその横顔が絵画に描かれている。作中には、登場人物を正面から捉えるショットはもちろんあったが、横顔を捉えたショットの方も多かった気がする。男性の美しい表情、しかも性的欲望を受け止める客体化された身体としての横顔は、木下惠介映画に登場した佐田啓二が担っていたものと共通する点もあり、男性の美しさ、若さの美しさへの羨望という意味で映画史的/絵画史的な連続性を辿ってみても面白いだろうなと思った。
あと、ドラァグクイーンのマーガレットさんが1990年代の映画で狂気的なゲイ男性を扱う作品を挙げていたが、その辺の歴史に関してはB. Ruby Rich、Alexander Doty、Richard Dyerによる批評を読むといいだろう。
老化した身体とセクシュアリティについては、最近出版された下記の書籍が勉強になった。
Sexuality, Disability, and Aging: Queer Temporalities of the Phallus
- 作者: Jane Gallop
- 出版社/メーカー: Duke University Press
- 発売日: 2019/01/11
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