ダイレクト・シネマとシネマ・ヴェリテの違い
今週読んだ論文のなかで、何度も「ダイレクト・シネマ」という言葉が出てきたので、今回は「ダイレクト・シネマ」と「シネマ・ヴェリテ」についておさらいしたい。定義は両方とも『現代映画用語事典』から抜粋引用する。
読んだ論文
NORNES, Abe Mark. "Marking the Body: The Axiographics of the Visible Hidden Camera." DV-Made China: Digital Subjects and Social Transformations After Independent Film. University of Hawaii Press: 2015. 29-56.
▪️ダイレクト・シネマ [direct cinema]
ドキュメンタリーの手法・スタイル。1960年代にアメリカで発達した形式で、50年代末に開発された16ミリ・カメラや同時録音の技術を用い、カメラの前の出来事を事実そのままに伝えようとした。同時期にフランスで興隆した<シネマ・ヴェリテ>と相関関係にあり、ヴェリテ作品の撮影を務めたカナダ人が、カナダ国立映画製作庁による記録映画でこのスタイルを採ったのが始まりとされる。60年になってニューヨークのドキュメンタリー制作集団ドリュー・アソシエイツがこの方法を踏襲し、「大統領予備選挙」(60)など3作を製作、「母の日」(63)のリチャード・リーコックを筆頭に、「ドント・ルック・バック」(67)のD・A・ペネベイカー、「セールスマン」(69)のメイズルス兄弟といった代表的作家を輩出した。<ダイレクト・シネマ>の語句は、メイズルスがシネマ・ヴェリテとの差異を強調し使い始めたもので、対象をダイレクトに伝えるため”壁のハエ”(リーコックの言)となってカメラの存在を消すように務め、ナレーションを排し、ロング・テイクや最小限の編集で、出来事の時間順に構成したのが特徴。ダイレクト・シネマの思想は「チチカット・フォーリーズ」(67)のフレデリック・ワイズマンに継承されるが、70年代になるとダイレクト・シネマでもシネマ・ヴェリテのインタビュー形式や対象に関与する手法を部分的に取り入れだし、<ヴェリテ・スタイル>と呼ぶことが多くなった。これに対し、事実に準じて記録するドキュメンタリー全般を<観察映画/observational cinema>と命名した記述もある。(88-89頁)
▪️シネマ・ヴェリテ [cinema verite](仏)
ドキュメンタリーの手法・スタイル。1950年代末から60年代にかけてフランスで台頭した、手持ちカメラや同時録音によって取材対象の人間に”真実”を語らせる形式。語源はロシアの記録映画作家ジガ・ヴェルトフが自作のニュース映画群に対して用いた”キノ・プラウダ”にあり、そのフランス語の直訳<シネマ・ヴェリテ>(映画・真実)がこの様式の名称となった。カメラや機材の軽量化が進み同時録音が可能となった1950年代末、フランスのジャン・ルーシュが「私は黒人」(59)やアフリカの記録映画などで、インタビュー形式により人間をありのまま生々しく捉え、映画史家ジョルジュ・サドゥールがこれらをシネマ・ヴェリテとして評価、またルーシュや協力者エドガール・モランもこの語を用いたことで、用語として広まった。この狭義での代表作は、ルーシュとモランの共同監督作「ある夏の記録」(61)やクリス・マルケルの「美しき五月」(63)など。ルーシュは<ヌーヴェル・ヴァーグ>の”左岸派”でもあり、撮影対象者にインタビューを行い、その返答反応を捉えることで真実の姿を描き出す方法は、ゴダールが「男性・女性」(66)に取り入れるなど、ヌーヴェル・ヴァーグとも深く関わりを持つとされる。また、ほぼ同時期にカナダ・アメリカで興った<ダイレクト・シネマ>の手法とも相関関係にあり、ダイレクト・シネマに対してシネマ・ヴェリテはカメラ(インタビュアー)が撮影対象に積極的に関わることで真実の姿を引き出そうと試みる点が特徴。近年にマイケル・ムーアのアポなし取材で活用されているという意見もある。インタビュー形式は記録映画で広く用いられ、のちにダイレクト・シネマを含めたドキュメンタリーの形式を示す用語としてシネマ・ヴェリテを使う例も多く見られた。(64頁)
小野智恵『ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス ニュー・シネマ時代のスタイル』の参考文献からメモ
研究室の先輩、小野智恵さんが出版された『ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス ニュー・シネマ時代のスタイル』をようやく読み終えた。映画技法や音響からアルトマン映画と古典的ハリウッド映画の差異を細かく検証していく試みから、とても多くを学んだ。同時に、参考文献表から気になる文献が三つあったので、今回はそちらを紹介したい。ボードウェルとエルセサーのものはすでに読んだことがある。
Belton , John. "The Bionic Eye: Zoom Esthetics." Cineaste 11, no. 1 (1980).
http://www.peterasaro.org/courses/Studio/Belton,%20Bionic%20Eye%201980.pdf
Bordwell, David. "Intensified Continuity: Visual Style in Contemporary American Film." Film Quarterly 55, no. 3 (spring) (2002).
http://www.peterasaro.org/courses/Studio/Belton,%20Bionic%20Eye%201980.pdf
こちらはネット検索すれば、他のダウンロード先がすぐにヒットする。
Elsaesser, Thomas. "Tales of Sound and Fury: Observations on the Family Melodrama." Monogram 4 (1972).
http://thoughtandimage.org/wp-content/uploads/sites/3/2012/10/Elsaesser.pdf
「響きと怒りの物語 ファミリー・メロドラマへの所見」石田美紀、加藤幹郎訳、『「新」映画理論集成1. 歴史/人種/ジェンダー』(フィルムアート社、1998)所収。
ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス: ニュー・シネマ時代のスタイル
- 作者: 小野智恵
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2016/03/29
- メディア: 単行本
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ゼミ用メモ:アニメーション
今週のゼミで、M2が修論中間発表としてアニメーションについて発表するので、今回はそのためのメモ。
ウィンザー・マッケイから二本。
「恐竜ガーティー」(1914)
Gertie the Dinosaur (1914) - World's 1st Keyframe Animation Cartoon - Winsor McCay
「虫のサーカス」(1921)
1921 - Bug Vaudeville - Dreams of the Rarebit Fiend - Winsor McCay
ポパイシリーズから二本。
「船乗りシンドバッドの冒険」(1936)
Popeye - Popeye the Sailor meets Sindbad the Sailor (Full length video)
「ポパイの魔法のランプ」(1939)
Popeye - Aladdin and his wonderful lamp (Full length video)
アニメーション研究のための論文と書籍のデータベース
アニメーションは大好きなんだが、なかなか勉強するにまで至っていなかったから、何か面白い文献を読みたい。手元にあるのはこの三冊。
ミッキーはなぜ口笛を吹くのか: アニメーションの表現史 (新潮選書)
- 作者: 細馬宏通
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/10/25
- メディア: 単行本
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『逢びき』(Brief Encounter, David Lean, 1945)
今週のゼミ発表はDavid Leanの『逢びき』が議論の対象となるので、予習のため情報収集をしておく。原作はノエル・カワード(Noel Coward)の『静物画』。
ローラを捉えたキャメラが次第に傾いていくところは毎回ぐっとくる。
『逢びき』の冒頭と最後でアレックがローラの肩に触れる演出が有名だが、トッド・ヘインズの『キャロル』でもキャロルがテレーズの肩にそっと手を置くという演出が使われている。ヘインズ自身も、この演出が『逢びき』からの引用だったとインタビューで答えていたと思う。
映画学者のキャサリン・グラントによって比較検証が行われている。
THERESE & CAROL & ALEC & LAURA (A Brief Encounter) on Vimeo
BFI Film Classicsから書籍が出版されている。けっこうなお値段。図書館の文献取り寄せサービスで依頼したので、どんな内容か楽しみだ。
Brief Encounter (Bfi Film Classics)
- 作者: Richard Dyer
- 出版社/メーカー: British Film Inst
- 発売日: 1993/12/27
- メディア: ペーパーバック
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映画学では、『逢びき』のホモセクシャル表象についてしばしば言及されてきた。先に挙げたBFIの本でも議論されている可能性が高い。
↓この本も面白いかも。
Visual Authorship: Creativity And Intentionality In Media (North Lights)
- 作者: Torben Grodal,Bente Larson,Iben Thorving Laursen
- 出版社/メーカー: Museum Tusculanum
- 発売日: 2004/12
- メディア: ペーパーバック
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論文
Andy Medhurst, "That special thrill: Brief Encounter, homosexuality and authorship." Screen (1991) 32 (2): 197-208
紙屋牧子「『ハナコサン』(一九四三年、マキノ正博)の両義性:「明朗」な戦争プロパガンダ映画」
今週の映画学授業ではマキノ正博の『ハナコサン』(1943年2月25日公開、東宝)について論じられる予定で、リーディング課題の一つに紙屋牧子さんの論文「『ハナコサン』(一九四三年、マキノ正博)の両義性:「明朗」な戦争プロパガンダ映画」が挙げられている。
ハナ子さん(1943年)- マキノ正博 / Hanako-san - Masahiro Makino
『ハナコサン』は「戦時下の国策に抗う底抜けに明るいミュージカルという評価が広く流通している」として(109)、紙屋はこれまでの映画研究における『ハナコサン』への言説のまとめから始めている。『ハナコサン』の製作背景には、「ハナ子さん問題」と呼ばれる内務省の検閲によるフィルムの削除(1752フィート、約20分)がある。マキノの自伝によれば、映画のラストシーンにおいて轟由起子が泣く演出が削除されており、その原因が検閲官によって削除された。この検閲の事実は、今ではある意味神話化されている傾向も見受けられるが、紙屋の論文は、轟由起子が泣くシーンが削除された理由を再考察するものである。
本論文の目的:「『ハナコサン』を同時代の政治的・歴史的コンテクストの中に差し戻し、同作品の神話化の過程で忘却(あるいは無視)された『優れた』戦争プロパガンダ性を炙り出し、更にはその戦争プロパガンダ性が、作り手(監督・会社)や国家の思惑の範囲を超えた次元においてさえ成立していることを明らかにすることである。」(109)
論文の構成
1 戦時下の<明朗>化
2 身体の規律化/機械化
2-1 歌うこと
2-2 戦時下の体育イベント/集団体操/舞踏
3 『ハナコサン』とアメリカニズム
映画雑誌や新聞記事などに表象された「明朗」なハナ子さんのイメージ、「明朗」という言葉がどのような文脈に使用されたか、規律化/機械化された身体表象としてのラジオ体操、『ハナコサン』に見る舞踏とバズビー・バークレーの振り付けとの比較など、論理的に組み立てられていて、とても読みやすい。
結論部分:
『ハナコサン』が明朗さを追求した中で軽佻浮薄さ(という「アメリカニズム」)へ踏み込んでしまった部分が検閲で削除された。それは二〇分にも及ぶ長さであったが、観客は「明るい映画を久しぶりにみたと大変喜んでいた」といい、映画はヒットし主題歌「お使いは自転車に乗って」は流行歌となった。この事実は、同時代の観客にさえ、『ハナコサン』のプロパガンダ性が、少なくとも強く意識されることはなかったこと、そして、マキノの演出が検閲方針の急激な変化によりそれと齟齬をきたす部分もあったとはいえ、基本的には国策の、そしてそれと相互に強化し合っていた表象の大きな枠組みに沿うものであり、それでいながら同時に観客の期待に応える娯楽作品としても見事に成立していることを示唆している。その為『ハナコサン』は、公開当時のアクチュアリティを無視した場合は、戦時下の国策に抗う明るいミュージカルという評価を得る映画となったのである。この両義性こそが、『ハナコサン』の優れた戦争プロパガンダ性を示してもいる。プロパガンダは巧妙であるほど、その真意を露わにすることはないのだから。だが、この巧妙さは、マキノの職人気質と手腕が結果として生み出してしまった個人の意図には還元できないものであり、それはマキノ個人はおろか国家の思惑さえも超えた次元で、戦時下の表象のメカニズムと観客の欲望との奇怪なる接合を映画テクストのうちに実現しているのである。(116)